谷川が繰り返し強調している内容が多いので、これまで触れたことがある個所は割愛したい。と思うのだが、「青」問題についてだけはそうもいかない。
ではなぜ海神はいったん青の島を足がかりとして、そこに足をとめた上で本土に上陸したのであろうか。そのことを『球陽』の記事が強調しているのはなぜか。それは青の島が死者を葬った島だからと考えるよりほかない。つまり青の島こそはかつては祖霊のとどまるところであり、ニライカナイに相当する常世でもあった。しかし後代になると人びとは海の彼方に祖霊の島を思い描くようになる。
正鵠を射ているところに誤解も入り混じるので解きほぐしにくい。海神が立ち寄るのは、そこがかつてのニライカナイであったからというのは、そうだ。しかし、死者の葬ったとは限らないし、さらにそこに「青」という色を見たわけでもなかった。
宮古島島尻の山の中腹にある自然洞窟の墓を訪れたとき、谷川は岩の隙間から大神島を真向いに見る。
神の島として宮古の人たちに尊崇されてきた大神島に、死者たちの視線がいつも向けられていることに、私は死者たちの幸福を感じた。それはやがてこの場所に自分たちも葬られるという生者たちの幸福につながっているとも思われた。
ここで、「青の島」にこだわらなければ、島尻の島人にとって、大神島が「あの世」の島に相当することが気づけたのではないだろうか。
池間島では人が死んだらイーに行くという。イーは池間島北端の無人灯台付近を指す。そのさらに北に八重干瀬が広がる。谷川はここで「北への指向性は何を物語るか」と問うて、中国大陸を想定している。しかし、これも八重干瀬という「あの世」を考える必要があると思える。縄文期の「あの世」は、方角が重要だったわけではないのだから。
あとは備忘のメモ。
猟で捕れて平等に分配する肉をタマスと呼ぶ。谷川は石垣島の漁師から「ザンタマシ」という言葉を聞き、ザンは美味なので、つとめて公平にしなければならないと解説している。
古宇利島では、創生神話をなぞるように、海神祭の際、「天から降ってくる餅をながい竿の先で突いて取る行事が今もっておこなわれている」。
宮古島では干瀬の白波を「糸(いつ)の綾」と呼ぶ。宮古は、繊維の比喩を発達させている。