もっとも印象鮮やかだったのは、村瀬にとって「初期」とは、時間的なはじめのことだけを意味しているのではないことだった。
つまり<初期>とは私たちにとって決して発達段階のはじめとして、とっくの昔に過ぎてしまった現象なのではない。今もなお私たちが接しうるものとしての、心的現象としての<初期>という意味をもつのでなければならない。既に心的現象は変容と発達の統一構造として存在していた。とするなら心的な<初期>とは、発達の上での初期であるだけではなく、変容にとっての初期でもなければならない。つまり心的現象総体にとっての<始まり>の問題が問われなければならないのである。
もう少し引き寄せれば、「<初期>とは、まさに私たちがそこで立ち直れるような視座を手にするところであってほしいと思う」ということだ。村瀬にとって「初期」とは、文字なき時代の「神話」のようなものとして掴まれている。
この村瀬の問題意識は、サンゴ礁の思考の態様を追うわたしたちにとっても近しく感じられるものだ。ぼくが理解したいと思っていたのは、違うものに似たものを見出す霊力思考と、霊力思考とともに霊魂思考を働かせて、同じものの別の形という小さな分節化を果たしていくことを、どう捉えたらいいのかということだった。
村瀬は、幼児が「おんなじ」「いっしょ」というとき、三つの事態が区別される必要があるとしている。
1.ふたつの現象が似ているという事態への着目(類似同定)
2.ふたつの現象が規範=約定として同一であるという事態への着目(指示同一)
3.ふたつの現象が構成として同一であるという事態への着目(構成同一=変形同一)
村瀬の言葉では、ちがうものに似たものを見出すのは「類似同定」だ。ここで想定できるのは、「サンゴ礁は貝」、「女性器は貝」と見なすことだ。ここで、イノー(礁池)の場所はちがっても、そこにあるのはウル(サンゴ)として同一であると捉えるのは「指示同一」ということになる。
しかし、先に同じものの別の形として小さな分節化を行うのは、この3つの範疇では捉えられない。というか、「類似同定」を別の視点から捉えたものと言ったほうがいいかもしれない。
「サンゴ礁は貝だ」というとき、サンゴ礁と貝が似ていることへ着目しているので、それは「類似同定」と言うことができる。一方で、サンゴ礁は、貝の別の形という場合は、貝をサンゴ礁の変容と見なしているので、それは「変容同定」とでも言えばいいのかもしれない。
違うものに似たものを見出す「類似道程」で、ふたつのものが結び付けられる。次に、それを一方から一方への変容として同じと見なすのが「変容同定」だ。
図示してみる。
サンゴ礁と貝との類似そのものへの着目は、「類似同定」。貝をサンゴ礁の変容態とみるのは「変容同定」。友利のサンゴ礁も平良のサンゴ礁も、サンゴ礁としては同じとするのは「指示同一」。
ここから、さまざまな貝のなかから、たとえばシャコ貝を抽出し、それを円に十字で象徴させたとしたら、それが「構成同一」になる。そこで刺青の文様が生まれることになる。
村瀬は「類似同定」の例として、イナイイナイバーを挙げている。横着をして画像引用しみてる。
違うもの同士を似たものとして同定することには「飛躍」がある。そして、その同定を「支持」することには、「対称が興味あるものになりおもしろみを帯びることになる」。それはとっても面白いのだ。
この意味では、サンゴ礁の神話空間は、幼児(初期)の観方による世界認識だとも言える。