沖永良部島の龍宮譚では、「ニラの島」での別れの際、求められて、「蒔かずに作られる作物の種が欲しい」と所望すると、「クヂマ(ひざら貝)」をもらう。
男は「海へ行って楽にして食べよう」と思って、「舟の上でクヂマ貝の背中の殻を取り外したら、笛吹松自分がクヂマになった」。
これは男がトーテムである「ひざら貝」に戻ったことを意味している。
この場合、持参した「ひざら貝」とは別に、男の化身態である「ひざら貝」がもうひとつできたのではなく、持参した「ひざら貝」になった、あるいはそのなかに取り込まれたと考えるべきなのだと思える。
このシーンは、「ひらぶ貝」に挟まれるサルタヒコの最期の場面を思い出させる。
サルタヒコ ひらぶ貝にはさまれる
笛吹松 ひざら貝の殻を取り外したら、ひざら貝になる
これは同じことを意味しているのではないだろうか。サルタヒコはそれが最期の場面であることによって、トーテミズムの終わりも鮮明に印象づける。笛吹松の場合、そうは書かれていないが最期であるにはちがいない。だから、これもトーテミズムの終わりを示しているのだろう。
劇的ではない、このなし崩しにも見える顛末は、琉球弧らしい気がする。宮古島の「山立御嶽」の由来譚で、異類婚姻をしたふたりが最後、スズという大魚になって海へ帰るのとも似ている。(参照:「山立御嶽」(『宮古史伝』))
トーテミズムの終焉というより、みずからひとまず閉じたとでもいうような感触だ。