動植物のメタモルフォースについて、ぼくたちは何を見ていることになるのだろうか。いまそれを敢えて数式に表現すれば、こうなる。
1.A→B
2.f(A)→f(B), f(A)=a1a2・・・an(anは一音)
3.a1→b1, a2→b2,・・・,an→bn
A,B:動植物・自然物
→:メタモルフォース
f(A)=a1a2・・・an :Aの名称
典型例をあげれば、バカギサ(キシノウエトカゲ)からカタカス(オジサン)へのメタモルフォース(変態)である。
動植物のメタモルフォースを追うと、その呼称のメタモルフォースに行き当たる。そして、呼称のメタモルフォースは、それを構成する言語のメタモルフォースが支えている。やはり、言語もメタモルフォースするのだ。
これは言うところの「言霊」のことではないだろうか。折口信夫は書いている。
所謂「言霊の幸サキハふ国」とは、言語の精霊が不思議な作用を表す、と言ふ事です。つまり、言葉の持つて居る意義通りの結果が、そこへ現れて来ると言ふ事が、言霊の幸ふと言ふ事です。つまり、さう言ふ事を考へて来るのは、やはり根本に、言葉の物を考へさせる力を考へ、更にそれからまう一歩、その言語の精霊の働きと言ふものを、考へて来たのです。つまり、我々の周囲にある物が、皆魂を持つてゐるやうに、我々の手に掴む事が出来ない、目に見る事も出来ないけれど、而も自己の口を働かしてゐる言葉に、精霊が潜んでゐるのだ、と言ふ風に考へた訣です。(『国語と民俗学』)
ここでいう言語精霊のことだ。ぼくたちが目撃しているのは、「魂」というより「霊力」なのだが。
この、言霊の幸ふと言ふやうな事を言ひ出した時代は、日本の国でもさう古い時代とは思はれません。それに似た信仰は、古くからあつたに違ひないのですけれども、言霊の幸ふと言ふ言葉は、言葉の形から見れば新しい形です。少くとも、万葉集などゝ言ふ書物に書かれてゐる歌が、世間で歌はれて居た時代です。だから少くとも、奈良朝を溯る事そんなに古い時代に、起つた言葉だとは思はれません。けれども、それと同時に、言霊が不思議な働きをすると言ふ信仰は、それではそれ以前はなかつたかと言ふと、全然なかつたとは言ひ切る事は出来ません。
ここが、ぼくたちの引き取る個所だろう。「奈良朝」以前の言語精霊の祖型。その作用は、言語自体のメタモルフォースに見ることができるのではないだろうか。