川村湊の『言霊と他界』をガイドに「言霊」をめぐる議論を一瞥する。
「言霊信仰」はふつう、このように捉えられている。
言霊の信仰とは、我々が発する言語には精霊があって、その霊の力によってその表現の如くに事が実現すると信ずることである。「雨降る」といへば、これを言ふことによって「雨降る」といふ事実が実現すると考へる。不吉な言を発すれば、そこに不吉な事が現はれるのである。(時枝誠記『国語学史』)
しかし考え方はそれぞれのようで、平田篤胤に源流を持つ「音義言霊派」もあれば、「言語によって表現されない思いの部分こそが、言霊によって語らずして通じなければならない」という富士谷御杖の考えもある。
音議論でいえば、「是人の声の霊なり、夫人は各七十五声毎に義理備る。其義を号けて言霊といふ」(中村孝一道)のが、「模範回答」と紹介されている。
折口信夫は、言語に付着する「たましい」こそ「ことだま(言霊)」に他ならないと考えた。しかし単語ではない。
どんな語の断片にも言語精霊が潜んでいたのではない。完全な言語の一続きでなければならなかった。その外には嘗て一続きの形であった言語の断片化して残ったもの、即ちいまは断片化してゐるが本来の意味をその使用法によつて感ずることのできる詞、これ以外には、言霊が内在すると見たとはいへぬ。それは咒文に潜んでいる霊魂で、単語にあるものではなかったのである。(『国史大辞典』)
ぼくたちがサンゴ礁の神話的世界で目撃しているのは、メタモルフォースする動植物は、その呼称もメタモルフォ―スしているということだ。しかも、一音いちおん変態している。それは、折口説よりは音義説に近く、単語そのものに精霊が宿る。あるいは、単語そのものを精霊と見なしていたことを意味するのではないだろうか。
ところで川村湊は、渡来した「文字」が聖なるものとして優位であった状況下で「言霊信仰」は生まれたと見なしている。それが「言霊」を考えるうえで「手離すことのできない条件である」、と。しかし、サンゴ礁の神話世界は、そうではないことを示している。