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『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク)

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 以前、ビートルズの魅力をレノン-マッカートニーという創作クレジットに求めたことがある。ビートルズの魅力の核心は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーというふたりの稀有な才を持ち合わせた個人にあるのではない。ふたりとも音楽の才に恵まれていたにはちがいないが、もしふたりが出会わなければ、それぞれの輝きは半減していただろう。ふたりの個人というわけではない、彼らの曲をあれだけのものにしたのは、レノン-マッカートニーという創作クレジットがもたらす場の力にあるのではないかと、そう考えた。

 それはとても不思議なことだ。だってそれは、ふたりが今後どちらが曲をつくっても作詞作曲「レノン-マッカートニー」とクレジットしようという合意に過ぎないのだから。たったそれだけの取り決めなのだ。しかし、そこには不思議としかいいようのない場の力が働く。実際、レノン-マッカートニー・ナンバーでのふたりの融合の度合いに分ければ、harmony型, collaborate型, help型, spice型, advice型とでもいうような五つの類型が見い出せる。(参照:『ビートルズ:二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』

 協力の仕方には、ふたりの色合いが溶け込んで、もはや一方のみの要素を取り出すことができないharmony型から、あきらかに一方が作っていて、他方はadviceを加えたに過ぎないものまで幅は広い。にもかかわらず、ここにはレノン-マッカートニーというクレジットの力はどれにも生き生きと作用しているのだ。ある意味でそれをもっとも示すのは、cover型と言うのも変だけど、誰かが作った曲をカバーしたものを見るのがいい。カバーしたものにすら、レノン-マッカートニーという場の力はありありとしている。それはアレンジのどこかにレノン-マッカートニーの作用が働いているからだし、カバーにしても二人の声のハーモニーはどこかで入っている。たったそれだけでも、カバー曲というより、レノン-マッカートニー・ナンバーとして聴く者の耳に響いてくる。

 そして、次々に新しい曲を生み出していく推進力になったのは、曲づくりの応答にある。たとえば、ポールが「私を愛して(love me do)」といえば、ジョンは、「俺を喜ばせろ(please please me)」と応えるわけだ。それはまるで、相聞歌だ。そしていちどそう聴いてしまうと、彼らの曲はそのようにしか聴こえなくなる。この応答こそが、タフなスケジュールと環境のなかでも、絶えることなく曲を産み出す力になっていった。

 ところで、12年前はこうしたレノン-マッカートニーという創作クレジットを滅多に起きることのないものとして捉えていたが、そうではないという手応えがやってくるのが、この本『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』だ。偉大な業績は「孤高の天才」がもたらすと思われているが、それは神話にすぎない。それは、「クリエイティブ・ペア(創造的な2人組)」が行うものだ。とまで言い切ろうとする勢いでこの本は書かれている。

 そこには何があるのか。著者は、魅力的なフレーズをいくつも書き出している。

真のクリエイティブ・ペアは、2人そろえば、どちらか1人で創造できることを超えて文化に貢献する。

クリエイティブな人間関係には典型的なストーリーがあることがわかった。創造的な関係には1本の弧を描き、2人が進む道を照らすテーマがある。

私たちは人生を変える人に出会うときがある。この瞬間から人生が変わるのではないかという可能性を感じる。地球上にいながら、自分たちだけが新しい軌道に飛び込むような感覚だ。

多くのペアは、自分たちにしかわからない「私的言語を持っている。(中略)2人だけに通じる言葉は、絶え間ないやり取りから有機的に生まれる。

偉大なペアは大きく違う2人であり、かなり似ている2人でもある。

ペアを組む2人が似ていることは(中略)、共通の関心と感覚が、未来のパートナーとの出会いを演出するからだ。

将来のペアの1人が磁石になり、もう1人を引き寄せるときもある。

クリエイティブ・ペアになる2人は、不思議なくらい似ていることが多い。そのような相手に出会うと、類似点が心に強く刻まれる。

果てしのない会話が続くことも、最初の出会いを象徴する。

クリエイティブ・ペアに発展する2人は、自ら創造に挑む。

 クリエイティブ・ペアの特徴には、「創造的な習慣の基礎」があって、著者はそれを「儀式」と呼んでいる。決まった時間に会う、決まった場所でつくるなどだ。そうして距離が縮まると、二人は自分たち以外の世界から切り離される。そして、レノン-マッカートニーのような2人(だけ)の約束が生まれる。

 こうした「ペアの創造的な活動と深い愛情は、区別できない場合も多い」。「創造的なペアは、創造的な活動を追求する」。著者が引用しているキュリー夫妻の言葉もいい。「私たちは夢を見ているように完全に没頭している」。

 レノン-マッカートニーについての言及も多い。というか、終始、主要な参照先になっている。著者によれば、ポールは、「ジョンが自分に差し出した挑戦的で大胆な素材を、ときにはさりげなく、ときには凝った技法で、ポピュラー音楽の言葉に乗せた」。一方、「退屈になりそうな歌をジョンが複雑な趣で生き返らせると、ポールには手も足も出なかった」。そして、ジョンとポールがそうであったように、ペアの関係は「役割の交代を通じて発展するときもある」。

 さらに「創造的な前進と同じくらい重要なのが感情のマネジメント」だ。あるアーティストと作家の組み合せでは、「どちらか一方の感情が悪化すると、もう1人の決断力が強まる」。意思しているわけではない。2人同時に落ち込まないように意識しているわけではない。単にできないのだ。

 著者のジョシュア・ウルフ・シェンクは、クリエイティブ・ペアの道程を六つのステージで捉えている。

 1.邂逅
 2.融合
 3.弁証
 4.距離
 5.絶頂
 6.中断

 興味深かったのは、6番目が終焉ではないことだ。著者は書いている。「ジョンとポールが明確に決別した時期を特定できない理由は、明確な決別がなかったからだ」。「クリエイティブなパートナーシップの場合、2人の関係から抜け出す決定的な方法がないからだ」。幕切れはある。しかし火花は消えていない。「たいていは周囲の状況に決定的な変化が起こり、バランスが失われるだけだ」。

 ただ、ジョンとポールの成り行きを追ったことのあるぼくには、著者の掘り下げに追加したくなることもある。ビートルズは少年の友情の物語のようなものだから、成熟した異性愛の場を持つようになれば、恋愛の準備としての友情は終わる。そうした成長の物語として見ることができる。しかし、よく考えてみると、恋愛したからといって、友情を終わらせる必要はないわけだ。

 それならなぜ、レノン-マッカートニーというクレジットは終わらざるを得なかったのか。それはやはりジョンが、ポールとのパートナーシップよりもオノ・ヨーコとのパートナーシップを選んだということだ。それはポールの立場からすれば残酷ですらあった。けれど、恋愛はしても友情は終わらなくていいということからすれば、やはりジョンとポールの友情にも終わりはなかった。だから、レノン-マッカートニーは終焉がなかったというだけではなく、再開へと開かれていたといっていい。

 それでもそれはなかった。その可能性は点滅しながらも、火花を散らすことがなかったのは、レノン-マッカートニーがどれだけ偉大だったとしても、ビートルズはジョージ・ハリスンとリンゴ・スターを加えて四人で成立するものだったからではないだろうか。ビートルズは、レノン-マッカートニーというクリエイティブ・ペアを軸にした共同体だったからだ。レノン-マッカートニーは、二人揃えば成り立つが、ビートルズは四人いなければならない。そこにはさらに複雑な要因がからむことになる。それに、いつも夢見がちに前を向いていたジョンは、そうそうに死者と化してしまった。

 また、著者が提示する六つのステージは、「邂逅」「融合」などの状況の他に、「弁証」や「時間」などの方法にかかわるものが混ざっていて混乱しないでもない。そこで、別のものを対置したくなる。

 1.火花
 2.融合
 3.方法化
 4.継続
 5.受容

 説明は要らないだろう。5の「受容」については、「中断」にせよ再スタートにせよ、それまでとは異なるものを受容することを指している。生き証人であるポール・マッカートニーの足跡をみれば、彼のなかでレノン-マッカートニーは終わっていないが、そこでは、ビートルズの解散、つぎにジョンの死という深刻な受容を経なければならなかった。そしてここ数年のことで言えば、これまであくまでパートナーとして向こう側に置いてきたジョンについて、「ジョンになる」という受容をし始めているというのがぼくの見立てだ。

 12年前、ただただ仰ぎ見るように羨ましく憧れたレノン-マッカートニー・クレジットは、この本を通じて、誰にでも開かれた、起こり得る関係として見えてくる。そしてもし自分にそのチャンスが訪れたなら、それにはきっと乗らずにはいられない。
 

『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』


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