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Channel: 与論島クオリア
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アマン(ヤドカリ)トーテムの伝承、他

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 アマンの、トーテムから零落までの変遷は以前、辿ったことがある(参照:「アマム(ヤドカリ)の身をやつした姿」)。このなかで、零落形態ではなく、トーテムであることをもっともよく示しているのは、石垣島の伝承だ。

人の始まり
島の最初に、方言アザブネラ(あだん科)自生し、常緑の葉繁茂せり
二番目に、やどかり(方言アマッザ)が樹根の下より穴を穿ちて、
「カブリー」といって出てきた。
三番目には、其の穴より、
「カブリー」と唱へつつ、男女二人が現はれた。
二人は、日を逐うて飢餓に迫られたとき、ふとアサネブラを仰ぎ見るに、巨大なる球の果実(方言、アサヌナリ)が黄赤色を呈し熟せるを、手づから探りて、一日の食となして安楽な生をつなぐ事が出来、子孫繁殖した。(石垣島、岩崎蝶仙「鼠の花竜(一)」「旅と伝説」1931年)

 また、トーテムであることを示唆している伝承といえば、与那国島が挙げられるだろう。

大昔、南の島から陸地を求めて来た男がありました。その男は大海原の中に、ぽつんと盛り上がった「どに」を発見しました。その「どに」には人間は住んでいませんでした。南から来た男は、この「どに」に人間が住めるかどうかを試みるために、「やどかり」を矢で放ちました。そこから幾年か経って、この「どに」に来てみると「やどかり」は見事に繁殖していました。それで、その男は南の島から家族をひきつれて来て、この「どに」に住みました。(池間栄三「与那国伝説」)

 会話のなかで語られたものとしては、野口才蔵の体験が忘れがたい(参照:「与論人の祖先はヤドカリだったって本当?」

子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
 その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)

 刺青を通じても、それは語られた。

老婆たちは、その背に巻貝を負った「ヤドカリ」の文様をなでながら、この「ヤドカリ」から、われわれは産れてきたもので、これは我々の先祖のしるしであると語った。(小原一夫『南嶋入墨考』)

 野口が子供の頃というのを、仮に10才だとすると、1928(昭和3)年になる。小原が老婆から採取したのは、1930(昭和5)~1932(昭和7)年だから、昭和のはじめのころまでは、信じられてもいたことが分かる。

 トーテムとされていたときからあっただろうと思える「ヤドカリ占い」も付け加えたい(参照:「ヤドカリ占い(沢木耕太郎『オン・ザ・ボーダー』)」)。

よく海岸に行ってヤドカリを探してきたものさ。これは私の旦那、あれはあなたの御主人、こっちは誰々と、ヤドカリに名前を決めておいて、お膳の端に並べるの。そして「いま船はどこにいるの」と訊ねると、無事に航海している時は、ヤドカリがみんな揃ってまっすぐ進む。何かマチガイがある時は、みんなが-ヤドカリよ-まぜこぜになってゴチャゴチャになる。本当にヤドカリの占いは、当たったわよ。(沢木耕太郎『オン・ザ・ボーダー』)

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