ここでは、加計呂麻島の阿多地にフォーカスして書いてみたい。
登山修は奄美での産屋の痕跡を、ヒジャマ(火玉)の伝承に見ている(「ヒジャマグヤ(火玉小屋)と産屋」)。阿多地で引かているのは、
ヒジャマの落ちるところは、火事が起きる。ヒジャマんぼ飛ぶのをみた時は、子供たちが、山で青柴を切ってきて、村のはずれの浜のウヤウチスィ(先祖の岩礁)と呼ばれる石の上でその青柴を燃やす。「ヒジャマだよ。ヒジャマだよ。」と叫びながら燃やす。
からっぽの味噌甕は、蓋をあけてその口を上にして放置してはいけない。かならず、ひっくり返しておく。
「妊娠中、ヒジャマを見ると赤児に赤い大きなアダ(ホクロ)ができるといわれる。それを消す方法は母親の生理で撫でるとよいとされる」。登山はこの例にも、「ヒジャマと出産」との関連を見ている。
阿多地については、
ウヤウチイワ(先祖の岩)という阿多地の例が、それをよく物語っていると思われる。奄美の人の先祖は、そんなところで誕生したのだというように。砂浜の中の岩というのも何か暗示的である。
登山は、もともと産屋だったものが、その機能を失いヒジャマグヤ(火玉小屋)に変化していったものだと見なしている。
この推理は妥当だと思える。付け加えるとすれば、「ウヤウチスィ(先祖の岩礁)」は、サンゴ礁=貝をトーテムとした段階で生まれた思考である。
続いて、ヨーゼフ・クライナーの「加計呂麻島ノロ信仰覚書」(「奄美郷土研究会報8号」1966)から。
阿多地は昔、イキグスクと呼ばれた。祖先となったのは兄弟姉妹。
ノロの祭祀集団(カミニンジョウ)のなかで、ただ一人の男性であるグジヌシュは「トネヤ、アシャゲ」の責任を負う。彼は、祖先となった兄弟姉妹とは別の家で継承された。もうひとつの神役であるスドゥは、兄弟姉妹の家系で継承される。
クライナーは、これを「もとの形に還元すれば」、兄弟姉妹による祭祀として解釈できる可能性を指摘している。
阿多地では、二月にカムムケを行い、四月にカムオホリをする。東方の「極楽」はネリヤカナヤまたはテルコとも呼ばれる。阿多地ではこのほかに、
オホリ祭のとき加計呂麻島南海岸の各部落から神々の船が出発し、全部請島の東方にある無人島木山島に集まって泊まり、その翌日マツニシ(北北東)の風で東南方の海に及ぶネリヤ島に帰るという伝説が伝わっている(武名・花富と与路にも同じ伝説がある。)
実久では六月のアラホバナと同時にカムムケ祭が行なわれるが、昔は仮面をつけたカミニンジョウが浜辺から村にのぼって、ネリヤからの稲穂を村人に贈ったという。
実久には仮面が生きていたわけだ。
次は吉成直樹の『琉球民俗の底流』から。
阿多地では、「ボッの神は山の神であり、山にボッの神様がいるという」。ボッ山(オボツ山)には、イビと「村を開拓した人」の祠がある。
二月の神迎えのとき、ボッ山から神を迎えるが、
そのとき、ボッの神はいったんデイゴの木に降り立ち、さらに神が四月の神送り(オーホリ)に送られるときまで滞在することになるトネヤと呼ばれる建物にやってくると考えられている(後略)。
この神の行路は、ボッ山の麓近くがかつての他界だったことを示唆している。