笠利のイヤンヤ洞窟には、「1975年頃までは洞窟内が風葬墓として利用されており、その名残の人骨などがかなり散乱していた」(「イヤンヤ洞窟遺跡」)。
ここのことは、茂野幽考も、死者はここを通って「あの世」へ行くと信じられていると書いていた(「奄美大島葬制史料」)。
そして、其洞穴には入ると、あの世で織る機の音や鶏の聲などが聴こえてくるといってゐる。凡ての心象を精神科学で解釈しようとする自分の心に、うっかりすると、島の人の熱烈な信仰に釣り込まれて、岩屋の奥に極楽がありそうな、不可解な気持に囚はれることがある。島の人の考へでは、後生極楽の世は土濱の洞穴から一里先位にあると考へてゐるのである。
茂野はいいことを言っている。「精神科学で解釈しようとする自分の心に、うっかりすると、島の人の熱烈な信仰に釣り込まれて」というところだ。
ここはまず、三宅宗悦が1933年に人骨調査を行う。1963年には、永井昌文、三島格が続く。
ここが「ヤーヤ遺跡」と言われることがあるのには、理由があった。
ヤーヤ洞窟遺跡をイヤンヤ洞窟遺跡」としたのはイヤンヤを”岩屋”と方言で呼んでおり、三島格にも確認をした。方言でイヤンヤと発音出来ずにヤーヤと記述したとのことである。
「岩屋」を「イヤンヤ」という。それは直接、「岩」を指す言葉ではない。この「イヤ」は、中四国や関西に分布するイヤ山、イヤ谷と同じ意味だと考えられる。(参照:「麦つき唄から」(柳田國男『故郷七十年』))