コフートは伝統的精神分析と自己心理学を区別するのに、「罪悪の人」と「悲劇の人」という言い方をした。
悲劇の人とは、
私たちが他人の鏡映なしに自己の安定感を獲得することはできず、恋に落ちても相手が応えなければ何も進まない世界に生きていると考え、私たちが他者とのつながりの中でしか、自分を一つのまとまりを持った存在(全体的存在)として体験できないことを、この言葉で表現したのである。
その「悲劇の人」が、「蒼古的自己愛からの脱錯覚」を進めるうえで、富樫は「意地」を重視している。
「意地」は、「自滅的行動や執念深い敵意と破壊につながる攻撃性を内包するという見解」が見られるが、そうではない。
1.意地は「悲劇の人」の葛藤の中で、自己の美的統一性・連続性を維持するための心性であり、それが自滅的・破壊的に見えるのは、意地の中核に破壊性があるからではなく、蒼古的自己愛空想に執着することが許されず、なおそれを諦めきれない状況で自己愛的怒りが表出される場合があるからである。2.意地が自滅的・破壊的になるか建設的になるかは、蒼古的自己愛空想の「諦め」にかかわる。蒼古的自己愛空想を諦めないための意地は自滅的・破壊的、諦めるための意地は建設的である。
3.「意地」は、受動的に体験する脱錯覚を内的に能動化し、脱錯覚に伴う痛みを積極的に予測し、リスクに立ち向う動機づけとなる。
ここでも症例が挙げられている。
クライエントがセラピストを蒼古的な理想化ニードを高めれば高めるほど、セラピストは強大な力でクライエントを無力にしてしまう脅威と感じられた。
そこで、セラピストが自分に魅了されれば制御可能と感じる万能幻想的空想を維持することだけが、セラピストを脅威と感じなくて済む方法だと理解される。
驚くのは、このことを、セラピストはクライエントとともに、理解し合意に至っていることだ。理解はセラピストの手にだけ握られているのではなく、合意されているのだ。
やがて両者は、クライエントの万能幻想的空想と意地の重要性、背景の無力感を理解するのに合わせて、緩やかにセラピストへの「理想化転移」が発展し始めた、とされている。
この経緯の詳細はともかく、繊細な理解が施されているのに驚く。