「生と死の反芻」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
「十字路のような分岐点は、地理的にはカジマヤーであり、そのカジマヤーは霊境をも意味している」(p.390)。
「琉球列島では命名、もしくは井泉に下りて水撫でをすまさぬ子は、人間としては認知されていない」。現代からみると残酷な葬法にも見える。しかし、日本、台湾にも、「死産児は冷酷に扱えば扱うほど、次に生まれる子は、よりよい状態で再生するという考えがあった」(p.391)。
川平で通行人に踏みつけさせるサンは、死霊の鎮圧の意味ではなく、もとは惜しまれながら死んでいった人間の再生を願う呪いとしてあったものが、死者を埋めて踏むことをせず、サンをもってこれに代用したものであろう(p.391)。
長寿葬のカジマヤーの。四つ辻は善悪いろいろの霊魂の住むところ。カジマヤーに埋められて人に踏まれ、そして新しい出生の機会をうかがっている若葉の魂のための、再生の願いの意図が、カジマヤーの元の姿ではなかったか(p.391)。
川平では主産した子供の初歩きを「道見せ」といって、近くの三叉路まで出て帰宅する。これはカジマヤーにいる先祖の霊魂を獲得する呪術であろう(p.392)。
三叉路もまた霊所であった。というより、これはどこでも他界であった観念が強く残っているということかもしれない。
死産児の屋内葬。葬る場所の多くが、火の神(竈)の近く。それは、伝承にいう家を守るためではなく、それを祀る女性に再び宿るという信仰があったのかもしれない(p.392)。
生命の余っている者と欠けた者が、お互いに融即しあって永生を願うというこの風習のもつ意味は、死は回転しながら再び生に還元されていくという信仰を暗示している。つまり生と死とは、それぞれ異なった二つの世界に住み分けているのではなく、両者は、始めから終わりへ、終わりから始まりへと、相互にその位置を確認しながら、また元に戻る「尻とり遊び」に似た現象を示している(p.393)。
霊魂と再生。「尻とり遊び」のたとえが面白い。