奄美大島を舞台にした『2つ目の窓』で、河瀨直美監督に関心を持ち、作品歴に『殯の森』とあったので、観てみた。なにしろ、「殯」をめぐるテーマにこのところ親しんでいる。
映画『めがね』が、忙殺を是とする生き方をしている主人公が、霊魂(マブイ)抜けするような島の環境に浸かって、ゆるやかに生に帰還する物語だとすれば、映画『殯の森』は、子を亡くして自失している主人公が、老人の死への道行きに随行することで、ゆるやかに生に帰還する物語だった。
両映画は、ひとつの共通する道具立てで交錯している。それは、携帯がつながらないということだ。そのことによって、両作品は、現実からの接点を亡くした世界を目指している。もっとも、『めがね』はそれはフィクションであり、ユーモアとして設定されているが、『殯の森』の場合は、カメラの動きがドキュメンタリーのそれを模したように、リアルさを追求しており、中身もあくまでシリアスだった。『めがね』の舞台は海であり、『殯の森』は森と、両極と言ってよいほど対照的だ。
けれど、つながらない携帯以外にも、時代の負荷を背負った女性が主人公であることや、途中で寝てしまうかもしれない点は、とても似ていた。心動かされるという点でも。
『殯の森』の主人公は、子を亡くしたことで自責の念にかられている。そのことがあって、どう生きていったらいいか、分からない。介護施設に勤めながら、半分、痴呆化しているかもしれない老人にもどう接していいか、分からない。けれど、ひょんなきっかけで茶畑のなか、かくれんぼしたことから親しみを覚えて行く。主人公は、無意識に、亡くした人を忘れられず、生に帰還できない似姿を老人に見ているのだ。
老人は、妻の三十三年忌を迎えるが、まだ妻のことが忘れられない。坊主に、もう仏さんになって、ここへは帰って来ないと言われる。老人もまた、どう生きていったらいいか、分からないままなのだ。老人が誘ったのだろう、主人公にどこかへ連れていってもらうのだが、車を道脇きでスリップさせたのを機に、老人は森のなか入っていく。ためらいものなく、どんどん進んでいく。しっかりした足取りで突き進む。主人公は、当惑しながらもついて行く。途中、携帯につながらなくなり不安を募らせたり、雨で急流になった川でパニックを起こしたりしながらも歩みを止められない。
しかし、森の中で、淡いエロスを含んだ一夜を経た後は、実質、他界の世界に入っていった。老人は若いままの妻と出会いダンスを踊るし、救助を思わせるヘリコプターが上空を過っても、助けを求めようとはしない。老人が、納得できる場所まで赴いて、はじめて老人は、そこに浅く土を掘り、妻の元へ旅立とうとする。そこで死に触れることで、主人公は生へと帰還する契機を掴み取っているのだと思う。
映画の最後、スクリーンに「殯(もがり)」の説明として、「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」と字幕が出る。でも、琉球弧のその世界を見ていると、この説明は物足りない。「死者の傍にしばし寄り添うこと」と加えてほしい。