折口信夫の「民族史観における他界観念」から。続き。
(霊魂に対して)人間的な思い方が伸びて行けば、他界霊魂即、祖先霊魂という信仰が発育するのである(p.341)
つまり、トーテム原理が失われれば、他界の霊魂は、人間の祖先としてしか想起できなくなるということだ。
我々の考え得ることは、他界と今生とでは、すべて時間・空間の関係が違っている。のみならず、数も、順序も、全然更(あらた)まった形で在るのである。もちろん因果関係の論理も、我々が今生を中心とするようなものではない。-そう言う状態にある他界というものを、古代の更に前なる古代人は考えていたのである(p.342)。
他界の生類を人間の祖先と考えた。日本の前「古代」は、まさにその最適切なものではないかと思う(p.344)。
私は日本民族の沿革・日本民族の移動などに対する推測から、海の他界観まづ起り、有力になり、後天空世界が有力になり替ったものと見ている(p.346)。
葬儀に関して、屍体処分の風習を思うと、海彼岸説が極めて自然で、むしろその事に引かれて、海中に他界を観じる様になったと考えてよい(p.346)。
恐らく山と田とを循環する祖霊と、遥かな他界から週期的に来る-特に子孫の村落と言うことでなく-訪客なる他界の生類との間に、非常な相違があり、その違い方が、既に人間的になっているか、それ以前の姿であるかを比べて考えると、どちらが古く、又どちらが前日本的、あるいは前古代的かと言うことの判断がつくことと思う(p.348)。
これは今でも通用する判断基準だと思う。
古代日本の動物では、羽衣を着るということが、説明を待たずして、大きな白鳥を現出することだったのである(p.355)。
なぜ人間は、どこまでも我々と対立して生を営む物のある他界を想望し初めたか。(中略)人が死ぬるからである。(中略)他界信仰の発生。他界の発生-それを唯つきとめて行けば、世界人の宗教心の発生所に到達するかも知れない。(中略)こういう学問に-一つの違った観察所を顧みなかった日本人が更めて手を出してよいことだと思う(p.359)。
この文言に出会えてよかった。
これは(琉球弧においてトーテムとするらしい動物を食べること-引用者)は恐らく週期的に、また年に稀に遠く来たり向かう動物の寄るのを計ってこれを取り、その血肉を族人の体中に活かそうとするのである。沖縄本島では、この風習がの変っている。一族中に死人があると、葬式に当って、豚の肉を出す。真肉-赤肉・ぶつぶつ・脂肉-を、血縁の深浅によって、分ち喰う。この喪葬の風と、通じるものがあうのであろう。別、これに通じる風を伝えたものと見て、不自然ではない。
郷党血食の儀礼とも言うべき祭りに共食せられる海獣は、祖先子孫の関連によって続いているものではない。併し食人習俗の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かそうとする所から、深い過去の宗教心理がうかがはれるのである。それと近い感情が、儒良(ジュゴン)、海豚に対して起る訣である。しかもそれは親子でもなく親戚でもない-その外のある緊密な関連と沖縄の人々は感じている。それよりもさらに生活の原始的な種部族にとっては、説明し難いものを感じている二違いない。所謂とてむととてむを持つ人との精神交渉は、彼等の単純な知識では解説のできない、しかし気分的には了解しているようなものであった(p.363)。
南太平洋の事例を見ると、トーテムは食をタブーとするのが普通だ。それなら血食は、トーテム原理が失われたところでなされるのか。それとも、トーテムのタブーが裏返ったものなのか。
海獣の中なる霊魂は、われわれと共通の要素を持っている。そうして人間身は現ずることをせぬが、変ずることなき他界身の中に、共通のものを持っている(p.364)。
仮面起源の複雑な中にも、とてむ像から出ていると言うことは真実である(p.366)。
折口信夫は、遠くまで歩んでいることがよく分かった。この論考を知ることができてよかった。