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Channel: 与論島クオリア
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アボリジニの三つの霊

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 ここで他界の発生する前の姿に接近するために、オーストラリアの先住民、アボリジニから得られた死における霊魂の運動を見てみたい。狩猟採集を続けた彼らの死生観には起源の像が宿されていると思えるからだ。

 『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』によれば、人間が死ぬと、その瞬間に身体を構成している霊が三分割される。

 そのひとつを著者は「トーテム霊」と呼んでいる。

 身体を支える生命の源にまつわる霊。この「生命の源」は、生命と動植物種の霊の生まれ故郷ともいうべき「地上の場」であり、人の血統と密接な関係にあって、一生を通じて滋養を吸い上げてきた源である。人が死ぬと、かつてはその精神と肉体とに宿っていたトーテム霊は、儀礼を通じて、動植物をはじめ、岩、水、陽射し、火、木々そして風といった生命維持には不可欠の自然霊へと立ち返る(p.462『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 この「源」の場所は、中沢新一の言う高次の対称性の世界のことだと思える。アボリジニにとってもこの場の存在は互いに入れ代わることができた。「植物が動物に変身することもできたし、動物が人間の男女に変身することもできた。先祖とは、人間であると同時に動物でもありえたのである」と思考されているのだ。森羅万象が精霊として次々に姿を変えていく対称性の世界のなかに帰還していくこと。これが死の元型的な姿だったのではないだろうか。多神教宇宙が発生すると、この高次の対称性の世界を自由には見れなくなってしまう。この見えなくなった世界が他界なのではないだろうか。

 二つめの霊を著者は「先祖霊」としているが、それは天空こある「死者の国」である。そこは高次の対称性の世界であった「ドリームタイム時代の先祖」が「支配する領野」で、「夜空の特定の位置に輝く星座」にある。先祖霊はそこへ赴く。死の直後、腹部には死者の属する氏族のトーテム・デザインが描かれるが、それが天空の「死者の国」への導き手になる。

 腹部に描かれるトーテム・デザインは、琉球弧において、アマムを入墨するときに「先祖に自分が子孫だとわかってもらうため」と考えたのと同じ思考を思わせるが、この先祖霊を迎えるのはいと高きところにいる高神だと見なすことができる。アボリジニでは天空に死者の国としての他界が考えられているが、「来世の生活ってのはどのみち、現世における狩猟採集生活そのものなんだよ。ただ、天空には、獲物はもっとたくさんいるんだがね(p.470)」というように、現世を投影された後生(グショウ)のことだ。

 ここで「ドリームタイム時代の先祖」と呼ばれる高神が登場するようにアボリジニの死生観でも既に高次の対称性の世界は失われている。ただ、失われているといっても「トーテム霊」に見られるようにまだそこへの通路は保たれているように見えるが、それでも起源の時のように自由な行き来はできなくなった。そのことが現世の延長としての他界(後生)という観念を発生させた理由なのかもしれない。

 三つめを著者は「自我霊」と名づけている。自我霊は、「場所との因縁が強く、妻、夫、親類縁者とはもちろん、道具や衣服といった物品との結びつきも強い。それは、人間を、有限な特定な対象と結びつけると同時に、個々人同士の関係や個々人が担うべき責任や喜びに結びつける霊力である」。自我霊は「死にさいしては、扱いが厄介でひどく危険な霊となるが、それは自我霊が、死に対して敵愾心を剥き出しにするからだ。なぜかといえば、死という変化によって、それまで生きてきた物質ないしは局所的な世界との接触が断たれてしまうからだる」。

 自我霊の性格はきわめて人間的だ。死は残された共同体メンバーにとっては対幻想に生じた欠損に他ならないだからだ。この危険性を回避するために残されたメンバーは儀礼や呪術行為を行うが、最終的には死者の記憶が薄れるという時間に委ねるしかない。この過程は、死者とともにあった対幻想が共同幻想に侵蝕される時間に他ならず、それは自我霊が先祖霊へと回収されるものとして意識されるはずである。

 このことから考えられるのは、自我霊と先祖霊という観念は、自己幻想(対幻想)と共同幻想の分化に対応している。だが、明確な分離は行われていない。だから、最終的には死によって共同幻想に回収されるほかなかったのだ。

 このトーテム霊、先祖霊、自我霊の三区分は、著者によれば、「まだ生まれていない者」、「生者/死にかけている者」、「死者」というアボリジニの世界区分に対応していると言う。この区分でいえば、起源の像はトーテム霊にあり、自己幻想と対幻想の分化によって、先祖霊と自我霊という観念が発生したのではないだろうか。こう考えると、南太平洋の事例においてもしばしば人間は複数の霊魂を持つとされる理由も理解できる気がする。それは必ずしもトーテム霊、先祖霊、自我霊と呼ばれる形態を取らないが、人間が動植物と同等の存在であると感じながら、それでも違いを意識し、違いを意識すると同時に、人間の系列を意識する思考の流れに対応していると思える。

 ところで、ここで紹介されているアボリジニには再生の観念はない。彼らによると、「生まれ変わり」とは、「「個人」という幻想に取りつかれていると、自我が死後も生き続け、来世でも変わらず存続するという発想にゆきつく」ことから生まれている。ぼくたちはここで書かれる「個人」を近代的なそれではなく、もっと柔らかい輪郭のあいまいなものとして受け取る必要があると思うが、しかし、彼らもまた「死者の国」での後生(グショウ)を考えているのだから、一見するとこれは矛盾した言葉に見える。彼らが自我霊や先祖霊を考えながら、それでも再生の思考を持たないとすれば、それはトーテム霊の存在感が強く、先祖霊の思考が伸びてゆくのを抑制しているからなのかもしれない。再生信仰においては、ひと時か来世での生涯を終えると、再び生まれ変わると考えられているからだ。



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