ぼくたちが来訪神と呼んでいるものに、概念としての言葉を与えたのは折口信夫だった。折口はそれを「まれびと」と呼んだ。「まれびと」とは何か。
てっとりばやく、私の考へるまれびとの原(もと)の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還(かえ)る靈物を意味して居た(p.5 『古代研究〈3〉国文学の発生』)
「まれびと」は、はるかに遠い所から時を定めてやってくる「神」だった。それは「神」としての「霊物」である。
まれと言ふ語の溯(さかのぼ)れる限りの古い意義に於て、最少の度数の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとという語も、人間の意味に固定する前は、神および繼承者の義があったらしい。その側から見れば、まれひとは来訪する神ということになる。ひとについてもう一段推測しやすい考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるがゆえにひとと称したとするのである。(p.5 『古代研究〈3〉国文学の発生』)
「まれびと」の「ひと」は、「神およびその継承者」の意味があった。「まれびと」とは来訪する神である。そして、人にして神なるもの」を表すことがあった。「人の扮した神」だから、「ひと」と呼んだのである。
折口信夫は、琉球弧を旅するなかで、「まれびと」、来訪神のイメージを具体化していった。それでは、来訪神の祭儀はどのように行われているのか。新城島の祭儀過程を見てみよう。
祭儀は、八月五日夜の司たちの女神役がビタケ御嶽(わー)の拝所でおこもりをするときから始まる。六日はオンプールーとよばれ、一年の豊作感謝をことほぐ日であって、夜には御嶽の境内でしし舞いが行われる。これがおわると、部落の家々は全戸が雨戸を厳重に閉ざして忌みごもりに入る。家の外に出ることも、部落内の道を往来することも、すべてがアカマタ・クロマタ祭儀団体(=男子結社)の厳格な統制のともにおかれる。というのは、この晩にビタケ御嶽の内部にあるナビンドーとよばれる霊地でアカマタ・クロマタが誕生するからである。したがって、団体の成員である男子は全員が御嶽の境内に参集し、一晩中寝ないでアカマタ・クロマタの生誕の秘事を護るのである。境内の周辺は若者たちによって厳重に警戒線がしかれ、何人もこれを突破して秘事を窺いみることができなくされている。境内の一隅に草を編んでつくられた小屋があり、男たちはここで寝泊まりする。御嶽のなかからは一晩中ゆるやかな調子で太古の音がきこえ、忌みこもっている村人たちに今宵こそはアカマタ・クロマタの産れる日であうろことを告知するかのようである。
七日はムラプールーとよばれ、きたるべき年の予祝をする日にあたる。村人たちは一年に一度だけ出現するアカマタ・クロマタを迎えるための準備をする。女神役たちはパナグミと呼ばれる海の幸・山の幸を盛った献立をつくるのに忙しく、男の一部はアカマタ・クロマタの伴をするシンカとよばれる一団の先頭に立てるノボリを作る。これには太陽と月を染め抜いた旗がとりつけられている。午後四時頃になると、村人一同老いも若きも、子どもたちすべてが御嶽の境内にあるナハおがんに集まってくる。おがんのなかでは女神役すべてがパナグミをもって集まり、神宴をくりひろげる。やがて夕刻太陽が沈みはじめる頃にアカマタ・クオマタの子供が出現する。全身葡萄の葉で覆われ、両手に細い鞭をもっている。これに触れると一年以内に必ず死亡するというので、アカマタ・クロマタがあばれだすと、群集は必死に逃げまどうのである。親のカマタ・クロマタは夕刻も遅くなってから出現し、四神を中心にシンカが囲集し、さらに一般民衆も加わって豊祝の踊りを行なって御嶽における予祝祭を終える。夜はアカマタ・クロマタが一晩中部落内の各戸を、まず、トゥネムトの家から司→カマンガ→バクスの家へと来訪し、さらに祭儀団体における先輩・後輩の世代序列にしたがってつぎつぎと訪れていく。やがて一番鶏がトキを告げると、部落はずれの霊地ナビンドーへ通じる神道に村人一同が参集し、わらでたき火をして神送りの行事を行う。このときにはカマタ・クロマタが闇のなかから幾度となく姿を現わして別れの耐え難さを村人に告げ、村人もまた別れの歌を切なく、声をかぎりに歌いつづける。老人たちが万感胸に迫って思わず落涙するのも、このときである。この七日から八日朝にかけての行事はきわめてドラマチックで演出効果もすばらしく、そこには長年月にわたる文化的な発展の行程が深い影を落としているといえよう。(『南西諸島の神観念』)
引用が長くなったが、琉球弧の島人でも来訪神を目の当たりにできる人は限られているから、できるだけ疑似体験に近づけてみたかった。
さらに細部のイメージを豊富にしていこう。まず、アカマタ・クロマタは、村落の祭儀団体によって運営されている。入団資格は、十四、五歳に達した男子であること、両親が村落員であり当人も村落に居住していることである。入団に際して、あるいは祭儀への参加の資格を得るためには、品行が問われ、肉体的な試練という通過儀礼(イニシエーション)を経なければならない。西表島古見の入団式では、祭祀の司祭者の家の庭で長時間正座をし、両手を大きく開かせたり合わせたりさせられる。姿勢が崩れると棒で殴られたり水を浴びせられたりする。そして好きな女性を告白させられる。団体員は、アカマタ・クロマタの秘密が伝授されるが、高位になるにつれ伝授されることも多くなり、長老を頂点とした階梯を踏んでいくことになる。
男子の秘密結社のなかの、こうした通過儀礼(イニシエーション)は、さまざまな技術の伝授を伴ったもっと厳しくきめ細やかなものであったに違いない。たとえば、オーストラリアの先住民、アボリジニでは、睡眠や催眠中にも意識を覚醒させておくことをイニシエーションの始めに実践し、トランス状態を誘発する方法を伝授される。トランス状態になるために南米では厳格な管理のもとに幻覚性の植物が用いられたり、それが祭儀にも取り入れられたりしている。そして、成年のための通過儀礼(イニシエーション)には、少年の死と成年としての復活が儀礼のなかに含まれている。琉球弧の秘密結社においても、かつては死と復活を意味する象徴的な過程が含まれていたのではないだろうか。しかし同時に、人生の階梯で辿る通過儀礼(イニシエーション)のなかに含まれる臨死体験の要素は、琉球弧において希薄であるように感じられる。それは単に現在の通過儀礼(イニシエーション)のなかに痕跡を留めていないというだけではなく、神話の記述のなかにも霊魂(マブイ)の離脱による記述が見出せないことにも依っている。
吉本隆明は『南島論』のなかで、山や火といった自然物や自然現象が神であり、死んだ人も神になる日本神話の記述についてこう書いている。
この自然物や自然現象が神とおなじもの、あるいは神のこの世界における顕現とみなれる生と死の度合はなぜ可能であり、またこの神はこの世界に住む人間が死の境界をこえたあとでひとりでに移行できる存在でありうるのか。わたしには肉体を離れて自在に遊行したり、滲透したりできる視線=意識の遊行体験であり、これがあらゆる神話的体験の源初にあるもののようにおもえる。視線が意識と結合したまま肉体を離れられれば、人間は死んだあとも境界の向側へ視線=意識のかたまりとして自在に遊行することも、その世界に滞在することもできるはずだ。この視線=意識は、他の人間や動物や鳥や虫のなかに入ることもできるし、自然物や自然現象に入り込んで、それに意識を吹き入れることもできるはずだとおもえる。
吉本は、アイヌのユーカラにこの例を求めるのだが、琉球弧ではマブイ(霊魂)が抜けやすく、またユタを通じて憑依の技術も伝承されているにも関わらず、臨死体験をもとにした記述や実践が希薄に思えるのだ。それは、アカマタ・クロマタにおいても、祭儀の全体は神女の祈願から始まるように、母系的な社会の構成に抑圧されてしまったのか、分からない。もしかしたら、臨死体験により自分が他界に接するよりも、来訪神を通じて、他界と現世との境界を現出させ、両者をつなぐことを意識化してきたのが琉球弧なのかもしれない。