萩原秀三郎の来訪神考。
南島の来訪神は古型。とすれば、草木を身にまとうのが原型。草荘神の草木は、草木そのものに霊性を認めている。大地に霊性があるのだ。その霊草はチガヤだ。
日本の来訪神の古型が草荘神にあるとすれば、来訪神の原郷を海の彼方とするのは難しく、その出現を水平的に表象する信仰形態は二次的に派生したものということができよう。さらにこの季節の変わり目に出現する来訪者が、祖霊であり穀霊であるとすれば、その一次的原郷は地下である可能性が増々高まってくる(「来訪神-時間・空間の境より出現する神」『芸能』1990年)。
マユンガナシには、祖霊と穀霊の要素がダブって見える。「手拭で頬かむりしてクバ笠をまぶかにかぶり、クバの蓑を前と後にまとい六尺棒を手にした神が、長々と祝詞を唱えて回る」。イヌの日にイヌ歳生まれ男性がマユンガナシに扮する。「イヌにまつわる伝承も、穀物将来譚にしばしば犬が主要な役割をになうように穀物の豊産に深くつながるイメージである」。マユンガナシが神から人に戻るのはクラヤシキだが、クラヤシキは「昔、村の非常用の米倉のあった屋敷跡である」。
船競漕の習俗は、中国長江流域から東南アジアまで広がる。「海の彼方から遠来の神を水平的に迎えるマレビト信仰は、この船競漕と同じ文化領域の中にある」。「日本の弥生時代の開幕を告げる稲は、長江流域からもたらされたことはわかっている。ただ、長江のどのあたりが中心か、その稲作文化の担い手は、そして伝播のルートは、といったことが未だ確定していない」。
ここまででいえば、「マユンガナシには、祖霊と穀霊」の要素が強いのは、蓑笠の姿や神を解く場所がクラヤシキであることから頷ける。萩原は苗族が元であることを言いたいように見える。
2005年の「来訪神の座標軸」(『東アジア比較文化研究』)ではその主張はもっと進んだものになっている。粟作は、水稲耕作文化以前の古い栽培文化であるという主張が多いが、「粟作と結びついたマレビト祭祀を水稲耕作文化以前と截然とすることはむずかしい」。なぜなら、稲作の起源は長江流域で一万数千年前とする説が有力であり、黄河流域のアワを越えた古さだからだ。つまり、マレビト信仰の淵源は、稲作文化にあると言うわけだ。
来訪神の本質は、稲が枯渇して死を迎える-つまり刈り入れの時に出現するところにある。稲に限らず「食料の貯蔵の更新を支配する儀礼によって」時間の区切り=正月は決定される(エリアーデ『永遠回帰の神話』。そうした意味での正月に出現してこその来訪神なのである。
「来訪神儀礼は本来水稲耕作文化複合として出発したが、水稲の伝播が雑穀地域を経由した際に、来訪神儀礼が雑穀耕作文化と習合した、とわたしは考える」。
萩原の議論は、稲作文化と来訪神儀礼の関わり、というより、稲作文化とつながりの強い来訪神儀礼の中身がよく分かるのだが、なぜ「水稲耕作文化」を淵源とすることに、強くこだわるのか、分かりにくかった。ともすると、かつてよく聞いた、稲作農耕こそは日本の起源とする議論のしんどさを思い出した。
来訪神は、農の神と限定されるだろうか。たしかに、「時を定めて」ということに照準すれば、穀物栽培との結びつきは強い。しかし、漁撈であるシュクの寄りに来訪神が結びついてもおかしくないし、フサマラーは雨乞いの際の来訪神だ。パーントゥは厄払い、アンガマは祖先供養を旨として来訪する。農の神、しかも稲の神として限定する必要はないと思える。