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青の島は、間を置いた島

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 ところで、地先の島としての奥武(オー)は、青という色として考えられている。

 おもろ記事から古代沖縄の色彩概念を質してみると、赤・白・青・黒の四色しか見出せない。このことは奄美諸島も同様であったようである。赤と白は“明るさ”に通ずるが、そのうち赤は魔物にとっては怖いものであり、城は清浄に通ずる。黒は赤・即ち“明るさ”と対遮する暗黒・無・恐怖・穢れの世界を観念・想定する。
 残るところの青は、青空・青葉・青海の語によっても推測されるとおり、空色・緑・淡黄・碧などの色を現している。そしてこれらの色彩は赤と黒に対して中間色となっている。したがって青の世界は暗黒でもなければ、赤・白をもって現わす明るい世界でもない。むしろそれは、明るい世界に通ずる淡い世界、古事記の黄の世界と類似の想定がなされるであろう。
 伊波氏は、古代沖縄人は、「来世は暗黒な所と思っていた」と述べているが、そうではなく、古代沖縄人は死後暗黒の世界には行っていない。それは「青の世界」に行っている。(仲松弥秀『神と村』

 仲松は続いて、「おう」のつく名の地名・御嶽名・神名が見出されることから、古代沖縄人が「青の世界」を想定していたとしている。沖縄には「奥武」名のついた地先の小島が七つほどあるが、「そのいずれも無人の小島であったところであるが、またその何れも古代の葬所となっていたと推定される島である」としている。つまり、仲松は、奥武島は「青の島」であり、死後の世界の島と考えているわけだ。

 谷川健一は、それを受けて、「奥武の島は人が死ぬと死体を運んで葬った地先の小島であり、風葬墓に葬られた死者が黄色い世界に住むということから、青の島と呼ばれたのである(谷川健一『南島文学発生論』)」と、やはり、「青の島」を他界の色として捉えている。

 しかし、この理解について違和感があるのは、葬地や死後の世界という役割を地名に当てるのは、砂浜をユナ(例えば与那)と呼び、小高い丘をパンタと呼ぶように、地形がそのまま名づけになる初期の名づけ方、柳田國男のいう「天然描写法」に適っていないことだ。

 ここで示唆を与えるのは、「青」という色彩の名称についてだ。言語学者の崎山理は、「白、黒、赤、青」が最初に色彩名称ではないかったと指摘している(「日本語の混合的特徴―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化―」)。崎山は、それぞれの語源について、白は「光」、黒は「闇」、赤は「昇り」、青は「中空」を意味する言葉だったと推定している。「光」と「闇」は明度につながる現象であり、「昇り」は動態を、「中空」は場所を刺す概念である。このうち、「中空」を指す語源の*awaŋ は、奈良朝の上代日本語では、アワ「淡」、アヲ「青」となっていた。たとえば、近江の語源とされるアハ-うみ「淡海、相海」は、アワ-うみが本来の語源であったとして、「平均 40 mしかない琵琶湖の湖面は中空の色を反射して鏡のように刻々と変化する。古代人はそれを熟知していたと思われる」と書いている。つまり、近江とは、中空の色を反映している様を表すわけだ。

 また、アワの語源となった *awaŋ は マレー語では「中空」だが、タガログ語では「空間」、マダガスカル語では「虹」、フィジ語では「遠く」、サモア語では「間」のように変化し、マレー語では述語にもなって、「合意できるか、まだ五里霧中」と言った場合の「五里霧中」の意味にもなっている。ぼくたちはこの南太平洋における「青」の語源の意味変化に関心をそそられる。

 田畑英勝によれば、奄美におけるアオの語感について、「時間的な距離とか間(間隔)」の意味に使っている(『奄美の民俗』)。老人たちは今でも、アヲヌ・トゥサン(距離が遠い)、アヲヌ、チキャサ(距離が近い)、アダアヲヌアッカナ(まだ距離があるではないか)などと言うのだ。この点は、谷川健一も気づいて、「奄美大島では『まだ青ぬあつかな(まだ時間があるではないか)』とか『青のちきやさ(距離が近い)』とか時間も空間も『青』という言葉で表わすんだそうです。不思議な言葉で私も山下欣一氏に聞いたんだけれど彼もよくわからない」(「日本の色」)と指摘している。

 さて、仲松は「青の島」を考察するなかで、「琉球国由来記」では、「アフ・アウ・アホ」と記されるが、これを漢字で書かれた「琉球国旧記」と対照させると、多くは「青」の字があてられており、「琉球国由来記」、「琉球国旧記」の書かれた19世紀初期には、青はアフ・アウ・アホと発音していただろうと推定している。「現在沖縄では青(おー)と変化しているのであるが、宮古・八重山では「由来記」と同じく青(あふ)と発音している」こともその傍証になるものだ。崎山は、近江の歴史的仮名遣いの「アハ-うみ」の本来の語源は「アワ-うみ」として捉えていて、その意味では、「アフ・アウ・アホ」もアワからの転訛か誤記が見られるが、同じ「青」の語源をめぐった言葉だとみなして考えてよいと思える。

 もともと「中空」という場所を示す言葉が、タガログ語では「空間」、フィジ語では「遠く」、サモア語では「間」というように距離概念の意味を転化させるのは理解しやすい。この語義変化の例を踏まえれば、距離概念で表わされた奄美の「青」の語感は、サモア語の「間」に近いと言える。そこで、奥武島の地名の意味は、間を置いた島という意味になるだろう。もしかしたら、フィジ語に言う「遠く」の反転である「近い」を含意したかもしれない。奥武という島はどれも、大きめの島の間近にあるからである。奥武島は、「青の島」であるに違いないが、「語源としての青の島」であり、色彩としての青を意味していないのである。そう理解するほうが、地勢をなぞる初期の地名の名づけ方にも適っている。

 色彩としての青が、象徴的な意味を帯びるようになるのはもっと後のことだ。常見純一は「青い生と赤い死」のなかでそのことを考察している。沖縄本島謝名城で行った色彩調査で、年齢が高くなるほど、就学年や都会、教育的環境との接触が少ないほど色名の種類が単純になり、色名称は、アハ(赤)、アハイル(赤色)、オールー(青色)、そしてシル(白)とクル(黒)しかない。オールー(青色)で表されるのは青紫-青-緑-黄緑-黄-黄橘の範囲にわたり、アハイル(赤色)の範囲は、色の相環の残り、橙-赤橘-赤-赤紫であることが分かった。謝名城集落の青色-赤色の色彩の区分は、全自然的な象徴であると考えられる。

 常見はここでこの区分を稲作の一生に当てはめてみている。稲の種子をまく、芽が出る、田植えをする。青田になり稲が熟すと穂は黄金色になる。この稲穂の受胎はオー(青)ガマと呼ばれる。卵の黄身がオーミ(青身)と呼ばれるのと同じである。穂が熟しおわって借り入れの枯れた状態になるとアカピー(赤っぴい、赤い)という。つまり、発芽-伸長-成長-成熟の過程が「生」の状態だとすれば、成熟-老熟-枯死の状態は「死」の状態であると考えられる。ここから、青と赤は、色彩として生と死の象徴を表すことを導き出している。

 このことは、「語源としての青の島」は葬地として利用されることがあったが、色彩概念として定着した青は、生を象徴する意味を持ったことを意味している。琉球弧の島人は、青を他界の色として観念したわけではなく、死を色として意味づけたわけでもないのだ。

 関根賢司は、沖縄本島や八重山から島に帰ってきた人を、決まって、「島は赤かったか、青かったか」と言いながら迎えるのに対して、驚くばかりでその意味が分からなかったが、後年、島が青く見えれば豊作、赤く見えれば凶作を意味するのを知ったと書いているが、この島人の挨拶言葉も、青と赤の象徴的な意味をよく表しているといえる。



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