『野生哲学─アメリカ・インディアンに学ぶ』について、印象的だった個所を備忘しておく。
イロクォイ族では、部族の会議のために七世代にわたって及ぼす影響をよく考えなければならないと誓い合った。現在の政治家に詰めの垢を煎じて飲ませたい宣誓だ。
なぜ、七なのか。著者の菅啓次郎は書いている。
「東西南北という基本方位に、上と下を加えて、6。この三次元の座標の原点にいる自分の位置が、7にあたる。ついで、世代。自分の発生源である父と母に、それぞれの両親を加えて、6。そしてこれらの直接的な先祖たちがひとつに収斂する点である自分が、7にあたる」。
「生命」に連帯することは、われわれの「生存」の重要な一部だ。そして生命との連帯は、人との生活と意識が「ヒト」という種の中だけで完結することを許さない。そのことに対する痛切な自覚も、「七世代の掟」には、はじめから織り込まれていた。
プエブロ・インディアンの教え。
スープを使うスプーンに瓢箪を使う。瓢箪は音楽でできている。だからすべての食べ物は音楽からもたらされる。生命もまた音でできた家。人々はその生命という音によってできている。人間が音でできている以上、耳を傾けるということが非常に重要なのだ。
こんな聴覚的世界(マクルーハンが論じたような意味での)に育った子が、十二歳になるまで、読み書きをおぼえられなかったというのも、むりはないと思う。
これは自然音を左脳で聞くという旧日本人とポリネシアンと似ているのではないだろうか。この特性は、長く琉球弧でも文字を必要としなかった理由の一端を示すかもしれない。
「人は動物であり、動物は人々だった」。
動物のかれらとともに生き、死に、かれらの命を奪い、それと引き換えに自分がかれらになる。かれらの生き方を見、学び、ときには模倣することによっても、自分はかれらになる。直接的な接触が、人に動物をめぐる精密な知識を与えた。おなじ水や岩塩、木の実や小動物といった食物を共有することで、人と動物は物質的にも似かよっていることが知られた。そして動物の肉を食い、その皮を身にまとうことで、同一化は完成する。 シャーマンたちの儀礼や種々の踊りが、動物の動きのまねにはじまったことは疑えない。
動物の擬人化と人間の擬動物化。毛皮による一体化。シャーマン動作の起源が、動物の真似によるものというのは面白い。オーストラリアのアボリジニでも、狩りの前に動物に憑依したような真似を行い、夢で出会うことが、実際の狩の前に、狩と同等に重要な行為として尊ばれていた。
イグルーク・エスキモーの教え。
人生の最大の危機は、人間の食べ物が、すべて魂をもっているというところにあるんだ。われわれが殺し、食わなくてはならないあらゆる生き物、着物を作るために倒し、解体しなくてはならないすべての生き物が、魂をもっている。魂は肉体とともに死ぬわけではないので、肉体を持ち去ってしまうわれわれに仕返しをしようなどと思わせないためには、その魂をよくなだめなくてはならない。
アメリカ先住民にとって穀物と同様に重要だったのはタバコ。この聖なる草々は神々への捧げ物として扱われ、病を癒すために吸われ、交渉の末の合意を誓約するために吸われ、ただの楽しみとしても使われた。
なぜ、それが神々との通信を果たすことになったのか。「その煙が垂直に立ち上るからだ」。そして、タバコの煙は息を目に見えるようにする。煙は、その息という生命の実質を、目に見えるようにする道具だ。
この考えは面白い。なるほど、そういう見立てだったのかもしれない。
菅は、「人類の自己収縮」を「世界史的な課題」と考えている。人類の自己収縮。その通りだと思うが、七世代先までのビジョンとなるような、そのことの魅力を語らなければならないのだと思う。