天の他界と再生信仰は、オーストラリアの南部域に見られる。
事例1.ウォンガ・マズ族。死霊は、妻、兄妹または父の胸に住む。別の先住民は叢林を彷徨し最後には大きな洞穴に行き、再生する。またの先住民によれば天に昇る、という。
事例2.北部マズタラ族。死霊は喪者の胸に(儀礼的に)置かれるが、ついで叢林に住み、また天に行くとされ、また再生の可能性もあるという。
事例3.アルンタ諸族。死者の霊魂は岩など一か所に集まり、狙った女の中に入り再生する。また、死者の島の他界もあるが、善人の霊魂は、天のよき至上神のもとに行き、そこにいつもとどまっているが、悪人の霊魂は悪霊の棲み家に行き、食われてしまうという観念もある。
これらの例は、天の他界は再生信仰を伴うものではなく、天の他界を持つもののうち、一部が再生信仰を伴うことを示すものとして挙げた。棚瀬襄爾も上の例について、
天上他界の信仰を持つ民族と、再生信仰を持ち他界観念を発達せしめない民族の境界領域にある諸族では、両信仰が出現すると同時に霊魂観念もより複雑化し、形像霊の性質もより明白になるようである(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。
と書いている。
たとえば、祝女が南太平洋に由来しない樹上葬を行ったとして、それは再生信仰を伴っていたとは限らない。むしろ、高神化への信仰による葬法であるように思える。
この天界の性質について、資料が乏しいことを挙げながら、天界の性質は至上神との関係においてうかがうことができるのではないかと書いている。
天の他界を信ずる東南オーストラリアの諸族にはいずれにも至上神信仰が指摘せられる。否、単に両信仰の共存のみならず、天界は至上神の御許であることや至上神による審判までが信ぜられていることが多いのである。
ここでの至上神をぼくたちは高神と読み替えることができるが、「天界は至上神の御許であること」は、もともと高神が「この世」のことだけを考える思考に基づていること、そして、「至上神による審判」は、高神がこの世の秩序を志向するので、審判という思考も生まれやすいと見なすことができる。
棚瀬はまた、オーストラリアにおける事例から、天界信仰のみの場合は、伸展位埋葬に伴った信仰であると推論している。また、天界信仰は霊魂思考の範囲に入ることを結論づけている。
天界信仰を有する民族が総じて人格視ないし形像霊的系統の霊魂観念を有するのは、葬法が埋葬であるため、死体は生者の目に触れないことに原因があるかと思われる(p.847)。
ここで、葬法と他界観念について整理してみる。
a.伸展位埋葬 天界
b.坐位埋葬 地下
c.台上葬・樹上葬 他界を持たない
d.死体放置 他界を持たない
これをベースにすると、文化複合の形態がある程度、見通せるかもしれない。トロブリアンドは、葬法において bだが、再生信仰において c であり、(b×c)である。上記のオーストラリア先住民の例は、葬法において a だが、再生信仰において、c であり、(a×c)である。
琉球弧の海上他界は、(b×c)。再生信仰は、(c)になる。
a、b は霊魂思考であり、c、d は霊力思考。ただし、深化が見られるのは、b の霊魂思考と c の霊力思考だ。というより、思考が明瞭に現れるのは、霊魂思考は b、霊力思考は c ということだ。