レヴィ・ストロースは、『今日のトーテミスム』のなかで、トーテミズム理解の先駆者のひとりとしてルソーを挙げている。
人間は、まず、自分がすべての同類(その中には、ルソーがはっきり言っているように、動物もいれねばならない)と同一であると感ずるから、そののちに、自分を区別し、これら同類を相互に区別する能力、つまり種の多様性を社会的文化の概念的支柱とする能力を獲得することになるのだ。
これはぼくたちが、トーテミズムについて、人間が、天然自然(動植物や無機物)との区別を認めた上での同一化の思考と考えているのと矛盾しない。
人をして話さしめた最初の動機は情念であったため、人間の最初の表現は比喩であった。比喩的言語がまず誕生し、本義は最後に見つけられた。事物をその真の姿で見たときに、はじめて、人はこれをその真の名で呼んだのだ。初めは、人は詩でのみ語った。推論することを思いついたのはずっとあとのことだ(ルソー)。
つまり、知覚の対象とそれが呼び起こす感動とを一種の超現実の中で混同する包括的なことばが、本来の意味での分析的還元に先行したというのだ。隠喩がトーテミスムの中で演ずる役割は幾度か強調したが、隠喩は言語をあとから飾りたてるものではなく、その根源的な叙法の一つである。ルソーによって対立と同じ次元におかれた隠喩は、同じ理由から、論弁的思惟の最初の形の一つを構成する。
これは分かる。しかし、「われわれはアマムだ」と隠喩で言うことと、「われわれはアマムの子孫だ」と本当に信じて言うことには大きな隔たりがあるだろう。祖先を「アマム-人、人-アマム」と表象できたところでは、「われわれはアマムの子孫だ」という言明が成り立つ。それが表象できない場合にも、「われわれはアマムだ」と言うことはできる。
そしてどちらの場合でも、トーテミズムを「人間が、天然自然(動植物や無機物)との区別を認めた上での同一化の思考」と捉えるなら、他の存在から人間を類別しているのだから、人間としての再生信仰があることに矛盾しないことになる。
この思考は原始農耕の開始によって深刻な変容をこうむる。まず、天然自然との同一化は、植物との同一化に注意が注がれる。ついで、人間の植物への化身という思考を契機に、人間としての再生信仰は、異類への転生信仰へ変換される。人間の植物への化身によって、植物を食べるという行為は、祖先を食べる行為になる。というkとは、これは食人の象徴化のヴァリアントのひとつとして捉えることができる。