吉本隆明は、『共同幻想論』のなかで、イザナミの死後譚と豊玉姫の子の生譚とがおパターンが同じで、人間の死と生が、共同幻想の表象として同一視されていると書いている。
これは、死が生からの移行であると捉える霊魂思考に対応している。
この同一視の共同幻想に対応する地上的な利害を象徴するものとして、吉本が挙げているのがスサノオによるオオゲツ姫殺害の説話だ。ぼくたちの問題意識だけに引き寄せれば、身体から「味物」をとりだしたポオゲツ姫を、スサノオは「穢いこと」をしていると見なして殺害する説話では、身体からの分泌物を聖なるものとするオオゲツ姫と穢いものとみなすスサノオとが対立している。いわばこれは、霊力思考が優位だった段階と霊魂思考が優位になる段階との交代劇を示している。もっと言えば、オオゲツ姫は霊力思考を優位にするが、スサノオは既に、死穢の観念を持っていると思える。スサノオにとって、身体はもう聖なるものではないのだ。
ハイヌウェレ神話では、排泄物として宝物を出すことを、島人は「穢いもの」とは見なしていなかった。それができるハイヌウェレを「妬んで」殺害する(cf.「ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀」)。ここではまだ身体は聖なるものであるという霊力思考が生きている。であればこそ、マリンド・アニム族は、殺害した女性を喰らいまでするのだ。スサノオはそうはしない。彼はこのときすでに、霊魂思考が優位になった観念の持ち主だったと考えられる。そこがオオゲツ姫とスサノオの説話とハイヌウェレ神話の相違点だ。