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Channel: 与論島クオリア
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他界・死穢・複葬・霊魂

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 『ド・カモ』の著者モーリス・レーナルトが言うように、死体と神とが観念の上で分離されていない段階では、死は生からの単なる移行にすぎない。したがって、バイニング族が言うように、死者はいたるところにいることになる。また、この時は死者は恐れられないから、トロブリアンド諸島のように、農耕による定着後であっても環状集落の中央に埋葬地が置かれる。これが、死が時間性としてしか疎外されていないことの内実だ。

 これ以降、他界や死穢が発生するのはなぜだろうか。ひとつの大きな契機として考えられるのは、トーテム原理が崩壊し、人間が再生するという信仰も崩壊することである。すると、聖なるものだった人間の身体は、死体になった途端に穢れたものへと反転する。したがって、死体がそのまま神であるという観念も生き延びられなくなる。この反転は、地上の他界で生者の世界と死者の世界とは反対であるという観念と同期しているのかもしれない。

 死穢の発生と同時に、死者は遠ざけなければならないものになる。死者の空間は集落から疎外される。また、人間が再生しないのであれば、死者が留まる場所がなければならない。そこで、他界が存在する根拠を持つ。それは、もう生者の空間とは隔たった異質な場所でなければならない。農耕社会の場合、それは土地とのつながりから地下へと考えられるようになった。こうして他界は空間性としても疎外されることになった。

 死者は、他界へ赴かなければならない。それはいつなのか。この問いに応えるために作られたのが第二次的な葬儀、いわゆる複葬ではないだろうか。死者が、他界へ行く機会はなければならない。そうでなければ、聖性をはく奪された死者は墓や集落の周辺を彷徨い続けることになる。ロベール・エルツが言うように、第一次の葬儀は、肉体の霊を生み出すものであり、第二次の葬儀は、骨を根拠にした霊を生み出す。肉体の霊は腐りゆくものであり、不安定である。骨の霊魂は腐ることはなく安定している。この骨の安定を根拠に、霊は他界で安定しなくてはならない。農耕社会ではこの骨は、頭蓋骨に象徴化された。

 この死の二重化が生の二重化に対応するなら、複葬の発生は成人儀礼の発生を意味しているのかもしれない。複葬が思考されたとき、シャーマンの入巫儀礼をもとに、成人儀礼が構成されたのだ。また、死者が他界へ行くためには、死者が身体の抜け殻という表象のままでは行くことができない。それは、身体とは別の自由な運動を獲得していなければならないだろう。だから、第二次の葬儀が思考される段階までには、霊魂という観念も獲得されていなければならない。

 霊魂は、死体と身体の抜け殻としての死者とが分離されている必要がある。死者の霊は死体から抜け出るのである。すると、それ自体として考えられた霊は、やがてそれこそが身体の本質であると考えられ、身体と霊は二重化される。ぼくたちはそれを霊魂と呼んでいる。

 この考え方でいくと、他界と死穢、複葬は同時に発生し、それまでに霊魂観念も生まれていたということになる。

 もちろん、死穢の観念なしに他界を発生させる場合もある。オーストラリアの東南部の先住民の天界がそうだ。この場合、二次的な埋葬はなく、単純埋葬だ。ここでは、死者は、再生信仰の崩壊が、価値の反転を生まずに、生の移行先として天界が考えられている。ここでは再生信仰の崩壊が価値の反転を生んでいない。おそらくそれは、彼らが狩猟・採集の種族であることと関係していると考えられる。



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