11月22日、『境界性の人類学―重層する沖永良部島民のアイデンティティ』を書いた高橋孝代さんの講演が法政大学で行われた。問題意識の起点がとても似ているので、聞きに行った次第だ。以前、論文を読んだ時は、アイデンティティの在り方について、与論との類似に目を奪われたが、今回は、むしろ違いが特に印象に残った。それは歴史の歩み方のことだ。
沖永良部は、北山王の次男、真松千代が世の主として統治し、与論は三男の王舅が統治した。この点に関しては、伝承としてではあるが歴史を共有している。
でも違いはすぐにやってくる。第一点は、第二尚氏成立以降も、沖永良部は、世の主の子孫が統治者を継続するのに対して、与論では、王舅系統は続かず、首里近傍からの花城与論主と、その子孫が統治者にある。ここから考えられることは、王舅とその一族は、北山滅亡後、弱体化したということだ。これは、与論への渡島以後、没北山までの時間が短かったためか、護佐丸の勢力によってダメージを受けたのか、それらのことは分からない。
そして第二の相違点は、薩摩の大島入り後も、与論では、花城一族が、与人の地位を占め続けるが、沖永良部では、はじめは琉球系が強いものの、時間の推移とともに、薩摩系の役人によって与人が占められるという経緯を踏むことだ。
高橋さんがその末裔に取材したエピソードによれば、薩摩役人が赴任してくると、在地の有力者は娘を連れて、藩役人も元に集う。そこで、藩役人、トンガナシが気に入った娘に杯を注ぐように言い渡すと、それが現地妻、アングシャリ指名の合い図になり、叶わなかった有力者とその娘はそこで退散する、のだという。
藩役人と現地妻の子、トンガナシワァは、優遇され、成長すれば島役人に抜擢される。藩役人の子孫同士は姻戚関係を結び、ここに支配者階層としてのシュータ層が形成される。
このシュータ層の形成は与論には起きなかったことだ。与論にも詰め役の藩役人は在島しており、その子孫たちも島に生まれることになるが、それは一族に留まり、横に連結されることはなかった。結果、薩摩役人系の与人も生まれていない。
この違いを生んだ最大の契機は、1690年に沖永良部に代官所が設置されたことだ。それによって藩役人の人数が増えるということが、与人層の二重化を生んでいる。これに対して、与論の与人は、花城系で継続され、それは与人という意味では、明治になるまで変わることはなかった。
この違いは大きいと言わなければならない。
厳密な歴史概念で用いられることはないが、生活のなかでは、アマン世、那覇世、大和世と称することがある。この言い方は簡明である他に、ふつうの島人の言葉のなかにあるものとして親しみやすい。
奄美では、そして与論でも、共通に言われるのは、アマン世、按司世、那覇世、大和世、アメリカ世、大和世という世替わりの流れだ。那覇世の次の大和とは薩摩を指し、アメリカ世の次の大和世は本土日本を指すという違いはあるが、大ざっぱに、島言葉よろしく、あまり厳密化されていない。
それはそれでいいのだが、一方で那覇世の後に来る大和世は、字面の更新ほどには単色ではない。近代以降に個人の困難となった、「二重の疎外」は、それが支配権として構造化された1609年以降でいえば、支配の二重性ということになる。沖縄の、日中両属とい言い方をなぞらえれば、奄美は、琉薩両属である。このなかで、貢納は薩摩に対して送るが、冊封使来琉の際には、那覇へ貢物を送ったわけだ。
そのなかでも、与論は、代官所は置かれず、琉球系の島役人に終始し、砂糖黍作は遅く、1857年に開始され、西郷隆盛は流配されない、という、最も大和色の弱い島だった。そうであるなら、那覇世の次の大和世は、那覇・大和世とでも呼んだ方が実態を示すのではないだろうか。その方が、明治12年、「大島郡」の設置によって、日本になるという大きな区別も明確になる。那覇世、那覇・大和世、大和世という流れだ。
アマン世
按司世
那覇世
那覇・大和世
大和世
アメリカ世
大和世
これは、奄美のなかで最も近しく最も似ている、沖永良部島との間に、それでも存在する違いを契機に考えたことだ。しかしひょっとしたら、この区分は、与論のみならず、もっと北の島まで通用するのではないだろうか。