安藤礼二によれば、鈴木大拙は、「霊性」とは「精神と物質の二元的な対立を止揚して、そこに一元的な領野を開く、直覚の力」である。「光に満ちあふれ、森羅万象がそこから生み出されてくる、時間と空間の根源」、その光景を見るための力が「霊性」である。
主客という区別を廃棄し、現在・過去・未来という時間秩序を超え、さらには無限の空間にまで広がり出て、あらゆるものに変身の可能性を与える。
この象徴が「光」である。
これは、ぼくたちが「霊力思考からみた世界」として言葉を手繰り寄せようとしているものと近しいと思える。
折口信夫は、「自他の区別、時空間の区別が消滅し、そこに霊的な象徴が溢れ出てくる「霊性」の地平を、憑依という現象が切り開く「霊魂」の領域として定位させていった」。
安藤は、その折口学の核心は、次の一節に「余すところなく述べられている」としている。
一人稱式に發想する敍事詩は、神の獨り言である。神、人に憑《カヽ》つて、自身の來歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。全體、狂亂時・變態時の心理の表現は、左右相稱を保ちながら進む、生活の根本拍子が急迫するからの、律動なのである。神憑りの際の動作を、正氣で居ても繰り返す所から、舞踊は生れて來る。此際、神の物語る話は、日常の語とは、樣子の變つたものである。神自身から見た一元描寫であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに發想は一人稱に依る樣になる。(「国文学の発生」第一稿)。
ぼくは、実感的にはまるで分からないものの、「霊性」の指すものの姿がなんとなく浮かぶ気がする。
(安藤礼二「「霊性」の起源と折口信夫の霊魂観」「古代文学46号」)