川満信一の「琉球共和社会憲法C私試案」は、ユートピア理念と近代的感性とアジア的道徳観のアマルガムだ。「国家の廃絶」がユートピア理念であり、散見する「自由」という言葉に近代的感性が見られ、「慈悲の戒律」というように、「戒」がアジア的道徳観を示している。なかでも、アジア的道徳観が全体を覆っている。
この憲法下の島人を想像してみると、愉しそうな姿は浮かんでこない。「政府」の代わりに「センター」を置くのは、アイデアだけれど、結局は、センター職員が富と権力と権威を握ってしまうことになりそうに見えて仕方ない。
第二十一条 居住地および住居は生産関係に応じて、個人、家族、集団の意志と、自治体の衆議における合意によって決められる。
ここに「個人、家族」が入っているから救いだけれど、自治体の合意を要するのは、ちょっとぞっとする。
第七条 貧困と災害を克服し、備荒の策を衆議して共生のため力を合わさなければならない。ただし貧しさを怖れず、不平等のつくりだすこころの貧賤のみを怖れ忌避しなければならない。
「貧しさを怖れず」というのは、ふつうの人にできることではない。貧しさを怖れたからこそ、これだけ昔のことを忘れることにまい進してきたのであり、経済成長の原動力でもあっただろう。むしろ、「貧しさと豊かさ」の尺度が変わる必要があるのだろう。
この試案に瀰漫するアジア的道徳観は、川満も「活かさなければならない」とする、「自然を崇拝した古代人の思想」にまで溶解して、ユートピア理念のなかに溶かし込み、近代的価値観の基盤に立って構想されるべきもののように思えた。
しかし、急いで付け加えなければならないが、ぼくは川満の試案をくさしたいわけではない。彼がこう書くとき、ほとんど賛成なのだ。
「琉球民族独立国」の主張は、戦略的プロセスとしては容認されるとしても、それが目的化されたら、結局、琉球民族を基本とする「近代国民国家」の後追いという思想の枠(ナショナリズム)から出られない。それでは私たちの未来構想は後ろ向きのつまらないものにしかならない。仮に「琉球民族独立国」が実現しても、その国家制度を資本主義体制の外部で、桃源郷のように成り立たせることはまず不可能である。世界の資本主義体制が持続するかぎり、琉球内部における階級的矛盾は同じ轍を踏むことにしかならない。
川満からこの認識が出てくるのは、彼に「国家の廃絶」という理念があるからだ。
第一条 われわれ琉球共和社会人民は、歴史的反省と悲願のうえにたって、人類発祥史以来の権力集中機能による一切の悪業を止揚し、ここに国家を廃絶することを高らかに宣言する。
試案であれ、空想的であれ、こうした言葉を刻めるというところに、ぼくは沖縄の潜勢力を感じる。また、川満がこの試案を書いた八十年代、「方向を見失ってしまった沖縄の情況を前に、なんらかの打開策を見つけないと呼吸ができない」と書く、その「呼吸ができない」という言葉づかいは、自分の言葉のようにすら思えるほど共感する。
ぼくはこの本を読んで、ほっとすることがあったのが収穫だった。大田静男の「疲れた口笛」にもほっとしたし、辺野古移設:反基地運動の先頭に立つ山城博治の「沖縄・再び戦場の島にさせないために」も、心底ほっとした。
山城は書いている。
しかし沖縄の団結を強調しすぎるのと誤解も受けそうだ。特に本土側には。しかしこの展望は日本本土の人々と袂を分かち孤立するというのではない。沖縄が総体となって日本政府に対峙していくということと、「日本人」全体と向き合うというのでは意味はまったく違う。私たちはなにより相互理解と連帯を強く求める。
もっと引用したいが、長いので、ここまでに留める。ぼくも同じことを、「『琉球独立論』を読む」で書いたつもりだ。
『琉球共和社会憲法の潜勢力』からは、沖縄、あるいは琉球が、歴史の先端に立つ「潜勢力」の萌芽を感じ取る気がする。発刊に感謝したい。