篠田謙一によれば、N9bとM7aは、縄文人を代表するハブログループと見なせる。形態学的には、早期前期は全体的に華奢で、中後晩期と差が見られ、また貝塚出土の人骨は洞窟遺骨の人骨ほど華奢ではないことが知られているが、ハブログループに断絶は見られないことから、これは環境の違いを反映したものと考えられる。「M7aに関しては南方からの進入が、N9bに関しては沿海州などの北方からの流入が想定され」る。
このような状況を考えると、縄文人は旧石器時代にさかのぼる南北双方の地域から流入した人びとが、列島の内部で混合することによって誕生したと措定できます。人骨の形態学的な研究をしている片山一道さんはかねてから、縄文人はどこからか来たのではなく、列島内で縄文人になったのだと主張しています。私たちは、これまで縄文人の起源を求めて日本の周辺の各地で人骨の形態を調査してきました。しかし、その時間の幅を現代にまで広げてみても、アイヌの人たち以外に縄文人に似た形態を持つ集団は存在しませんでした。そのため縄文人の源郷を探る試みは頓挫しているのですが、そもそも縄文人は由来の異なる人びとの集合によって列島内で誕生したと考えれば、外部に形態の似た集団を探すことに意味はないことになります。何となく青い鳥を探す話に似ていますが、現時点での縄文人のDNAデータも、このシナリオを支持しているように思えます。
cf.『骨が語る日本人の歴史』(片山一道)
琉球列島集団の成立については、こう書かれている。
石垣島の白保人骨の三体。
1.二万年ほど前の、最古の琉球列島人と言える人物のもの。B4かつ女性。古い時代に南から北上した集団の一員だった可能性。
2.R。東南アジアや中国南部など南方地域に起源を持つと考えられる。
3.4000年前。M7a。旧石器時代に南から北上して列島に広く分布したものと考えてよい。
いずれも南方起源と考えられるが、ここで篠田は考古学の見解に目配せして、縄文時代相当期の先島と沖縄本島は別の文化圏に属するされているのを紹介している。沖縄本島は南九州の影響を受け、先島は台湾やフィリピンと共通の文化圏に属していたとするものだ。篠田は、
現時点では縄文時代相当期にさかのぼる琉球列島集団の遺伝的な特徴を明らかにすることができませんから、琉球列島内部での集団の遺伝的な共通性と文化がどのような関係にあったのかを知ることができません。
として、さらなるサンプルの追加の必要性を訴えている。これは、考古学のような言い切りより受け取りやすい態度だ。文物のありようからみれば違いが出ても、これまで探究してきた精神のありようは似ているのだから。
伊江村のナガラ原第三貝塚。2500~2千年前の三体の遺骨は、いずれもM7a。「現時点で琉球列島の基層集団がもつ主要なハブログループはこれだったと考えてよい」。
これまでの分析による貝塚時代後期のハブログループ構成からは、弥生時代から平安時代にかけての数百年の歴史のなかで、琉球列島に本土日本から徐々にハブログループD4を主体とする農耕民が流入し、在来の集団に吸収されるかたちで人口を増やしていったというシナリオが見えてきます。
一方、沖縄島の具志川グスク崖下と石垣島白保から採取されたB4は本土日本にも存在する。
これが台湾の先住民、とくに太平洋に面した地域に非常に多いことを考えれば、海洋を通じた古代の交流によって南方から琉球列島にもたらされたと考えることもできます。白保竿根田原洞穴遺跡の旧石器人骨にもこのハブログループがあったことや、東アジアから南太平洋に展開したオーストロネシア語族の人たちの主体となったのもこのハブログループであったことを考えれば、B4は古代の海洋交流を担った人たちがもっていたハブログループだった可能性があります。(中略)オーストロネシア語族集団は、南太平洋の隅々まで展開した偉大な海洋民族ですから、北上して琉球列島に到達していた可能性も十分考えられます。海を隔てた地域は、陸上と違ったスケールの移動規模を考える必要性があり、琉球列島の成立を考えるときには常にそれを意識すべきなのでしょう。
また、「グスクの時代は沖縄本島で一足先に完成していた在来集団と農耕民の混合が先島諸島に波及していった時代だと捉えることができそうです」。
琉球弧の先史像が、少しずつクリアになっていくのが嬉しい。