死者が出た場合の、「キャンプ地を去る」から「家を去らない」まで、の過程を素描しておく。ここで、遊動生活で樹上葬を行っていた種族は、定着生活に入ると、台上葬に変換すると仮定しておく。
1.遊動
・死者を森のなかに移し、種族集団ごとキャンプ地を去る。
2.定着1(共存)
・死者を家のなかに台上葬で葬り、家族は集落内で家を去る。
3.定着2(区別)
・死者を家のなかに台上葬で葬り、骨の処理を風葬場で行い、家族は集落内で家を去る。
4.定着3(分離)
・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てる。家族は集落内で家をいっとき去って戻る。
5.定着4
・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てない。家族は集落内で家をいっとき去って戻る。
6.定着5
・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てない。家族は家を去らない。
問題は、喪屋を建てることと、家を一時去ることが同期しているか。それとも、喪屋を建て、家を去ることが併行することがあったかどうか、だ。いや、移行としてみれば、ありうるだろう。それより、定着3は、「分離」の段階に対応するのではないだろうか。
だが、柳田國男は二十世紀に入ってから、久高島について、「死人を大に忌み、死すれば家をすつ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す」(『南島旅行見聞記』)」とメモしている。これは、霊魂思考が強い場合の、3の変形だと考えられる。
この想定された段階のなかで、本質的に言えることは何か。
まず、定着2の段階で、死者を風葬場に運ぶのは、死者が「あの世」に行くと考えられたときに、ということだ。そして、定着3の段階で、喪屋は、家は生者のものだと考えられたときに、発生の根拠を持つ。だから、死者を風葬場に運ぶのも、喪屋の発生も、定着2、定着3以外の段階でも起きうると見なせる。
琉球弧において、「家を捨てる」習俗が長く続いたのは、「分離」が完成していないことと同義なのかもしれない。