吉田敦彦は、あとがきで書いている。
人類は言うまでもなく、いつの時代どこの場所においても常に、一方で食糧をはじめ生活に必要な物資を、有り余るほど手に入れて豊かな暮らしをしたいと願うと同時にまた、死が人間に不可避の運命であることを知りながらそれでもなお、不老と不死を心の底から希求せずにはいられぬ、胸情を押さえ切ることができずに、これらの二重の願望を、さまざまな神話および儀礼によって表明してきた。(中略)一方で豊穣と、他方で不老不死とを希求する神話および儀礼の伝統は、わが国でも今もなお語り続けられてきた伝承や、各地で行われている祭りとか民俗の中にも、根強く受け継がれている。(『豊穣と不死の神話』)
これは、人類の思考に遡行しきれていないのではないだろうか。「死が人間に不可避の運命であることを知りながらそれでもなお、不老と不死を心の底から希求せずには」いられないのではなく、かつて「不老不死」だったときへの希求を押さえ切れない、のではないだろうか。
もちろん、人類は「いつの時代どこの場所においても常に」、物理的に「不老不死」であったことはないが、「不老不死」としか認識しない自己意識の段階はあった。だから、希求の中身は、「不老不死」に向けられるなかに、「不老不死」の時への希求が潜んでいる。現在の、科学的な「不老不死」への希求は、万人にとって希求だろうか? むしろ、「不老不死」の時への希求の方が切実ではないだろうか。そしてそちらのほうが人類にとっての課題だと思える。
また、この本からは、日本では、死体化生に属するものが、スサノオとオオゲツヒメ以外には報告されていないという見解しかぼくは知らなかったが、そうではなく、「山姥」の昔話に豊富に見出せることを教えられた。