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Channel: 与論島クオリア
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『物欲なき世界』(菅付雅信)

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 以前は、島に帰ると、美味しいコーヒーとお酒を飲みたいという他は、潮が引くように欲求が後退していき、自分が欲望に吊り下げられているのを実感していた。けれど最近では、島に帰っても、相変わらず美味しいコーヒーとお酒は飲みたくなるのだが、欲求の引き潮は感じなくなった。それは、自分のライフサイクルがそういう段階に入ったことを示すのか、物欲が減っているかは分からない。もともと物欲が強いほうではないから、減るにしても大したものではないのだけれど。

 また、母の見舞いを繰り返すうち、思うところあって、一日ほぼ一食、しかも野菜中心にして一年近く経つ。これも、自分のライフサイクルなのか、時代を身体が感じ取っているのかは分からない。けれど、なぜあれだけ三度三度、生真面目に食べていたのか。しかも、ご飯を必須のように思っていたのか、不思議に思えてくる。そのくらいには自身の変化があるのも確かだ。

 菅付(すがつけ)雅信の『物欲なき世界』は、この「物欲」の減少が時代精神なのかどうかを(著者はそう結論づけようとしているが)、追った本だ。

 消費が万人のものになると、消費は意味を持たなくなる。ほしいものは自分たちで作るというムーブメントが定着する。ほしいものは、自ら関わる、作る、交換する、そういう主体的、参加的消費/生産が奨励される。新しい、見た目がいい、機能が多い、高級といった価値観よりも、関わっている人の顔が見える、信用/信頼できる、長く使える、公益的といった価値に重きが置かれるようになる。

低成長下、さらには定常型社会に向かう中で、シェアやレンタルが当たり前の「物欲なき世界」に突入し、買い物リストを埋めることに積極的な意味を持たなくなると、幸福のあり方が変わらざるを得ない。

 著者は後半で、「幸福」や「資本主義の限界」といった難しいテーマにも挑んでいる。しかし、本書の魅力は、「物欲なき世界」は、時代精神かどうかを取材を通じて探究している個所にあると思う。その事例の数々には、得るところが多かった。

 「物欲」の減退は、低成長に適応した結果だという側面がある。この適応は不思議ではない。人類は、モノに対する欲望に吊り下げられることなく生きてきた時間の方が圧倒的に長いのだから。一方で、靴は一足よりは二足のほうがいい。社会的な場面とカジュアルな場面で使い分けられるくらいはあったほうがいい。でも五十足も百足も要らない。この場合は、欲望の臨界点に当たる。現在の社会は、どちらにも見えるから、その先行きを判断するのは難しくもある。だから、そこをもっと追求してくれたらという願望は残った。たとえば、ミニマリストに取材し、彼らの欲望のありかを探ってゆくこと、などだ。実際に、「物欲なき世界」にいると思しき人々の欲求のあり方を知りたかった。

 ただ、プレニテュード(Plenitude(Plenum + attitude))の概念は分かる気がした。プレニテュード=豊かさの定義。

 1.新たな時間の配分
 2.自給(自分のために何かを作ったり、育てたり、行ったりすること)。自分の時間を取り戻すことは、自給を可能にし、買わなければならないものが少ないほど稼ぐ必要も少なくて済む。
 3.消費に対して、環境を意識したアプローチをすること。

 「時間は物質的なモノをしのぐ」、ということだ。これなどは、ミニマリストが言及する充足感でもある。


 本書の文脈とは外れるが、3Dプリンターは「現在のミシン」で、3Dプリンターで作っているものはハンドメイドなのだ、というチャド・ディッカーソンの言葉が刺戟的だった。

 
『物欲なき世界』


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