2月12日、考古学調査記録の地図を頼りに天久に向かった。方向音痴のぼくには地図でさえ、役に立たない。地図が役立たないのではなく、ぼくが役立てられない。そんなとき、新城和博の『ぼくの“那覇まち”放浪記』はとても頼りになる。
こんなところに、という感じでマンションの角を曲がると、坂道が始まり、その入り口には立神岩と名付けたい風情の御願所があった。小さな祠の壁がそのまま岩肌となっている。香炉を前にして、岩と対峙することになるのだ。その背後には切り立った崖がそびえ立ち、ここもまた波で削られたノッチ、窪みに向かって立派な碑が立てられている。あとで確かめたら、ここ天久の「崎樋川」は、かつてjは豊富な水量を誇った有名な湧泉だった。
そしてそうその通りに、新城も紹介している写真の場所に行きつくことができた。
この立神は実際、貝塚時代には海際に聳えた岩だった。その岩の脇には豊かな水が流れ込んでいたのだと思う。
わくわくしながら、ただ、ぼくの目当ては、もう少し北の方にもあった。新城が「崎樋川」と書いている貝塚跡に行きたかったのだ。それは左下の建物の向こうにある。
いまはもう崖の箇所だけが、使い道がないのと、貝塚が見つかったのと、たぶん二つの理由で残されている。企業の建物の向こうにあるのだが、事情を話すと、場所を案内してくれた。もちろん、下のような茂みが広がっているだけなのだが。
中に入ってみたかった。でも、ハブに対する勘所がまったくないぼくには、「ハブ、気をつけてくださいね」と言われただけで身のすくむ思いで、立ち入れなかった。しかし、そこは間違いなく、島田貞彦が発掘した崎樋川だ。
ここに行きたかったのは、ここが初めて「蝶形骨器」が発掘された場所だからだった。
13日には、読谷の座喜味城跡へ。与論人(ユンヌンチュ)も徴用されたと聞いているから、壁肌を触りつつ、島人の労をねぎらいたかった。城(グスク)は、言われている通り、たしかに流線が美しい。
しかし、ぼくの目当ては、座喜味城ではなかった。実をいえば、目的地のそばにあるからという理由で立ち寄ったのだ。座喜味から20分ほど歩いたところにそれはあった。あったといっても、何人も聞いて、久米島出身の方がしばらくして思い出して教えてくれたのだった。長浜の吹出原遺跡だ。
ぼくが一番、心動かされたのは、この珊瑚の巨岩郡だ。これは崖の上に、内側の平地との境界のようにそびえている。下の写真では小さく見えるけど、実際は、10メートルほど続く岩群れなのだ。
この珊瑚岩の向こうには、長浜の海が見える。これまた写真では分かりにくいが、長浜のサンゴ礁は大きく、エメラルドグリーンの色を溶かしたように沖の蒼に混じっているのがとても美しい。遺跡場所の標高は50メートルくらいはあるだろう。その崖上から、美しいサンゴ礁を見下ろす感じなのだ。
そして後ろには、ふたたび崖が聳えている。「崎樋川」もそうだが、崖と崖のあいだの平地は居住地に選ばれやすかったようだ。この珊瑚岩たちをみていると、与論島のハジピキパンタも相当な威容だということが分かる。ハジピキパンタは与論島では他に類のない聖地だったのだ。
吹出原遺跡に行きたかったのは外でもない。ここから最大の「蝶形骨器」が発掘されているからだ。下がその蝶形骨器の実物。これが目当てで歴史民俗資料館を訪ねたら、そこに座喜味城があったので立ち寄ったという、座喜味城には申し訳ない見学だった。
思うに、吹出原のシャーマンは相当、大きな力を持っていたのではないだろうか。そんな気がした。
ここの遺跡場所も、住宅地にできなただの空き地のように見捨てられた場所のようにある。しかし、珊瑚岩があり、地勢と地形は損なわれてはいない。そんな場所なら、貝塚時代の精神にはまだ触れることができる。そんな気がした。空地だろうが荒地だろうが、ぼくにとっては強力なパワースポットには変わりない。格別なひとときだった。
『ぼくの“那覇まち”放浪記―追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』