吉本隆明の横にその存在をずっと感じ続けてきた谷川雁の本を、格別な縁があって手に取ることができた。硬質な文体に吸い寄せられていくのが心地いい。久しぶりだ。
しかし、立ち止まらせるのは、硬質な文体そのものではなく、そのなかに湛えられたやわらかな感受性の方だった。谷川は、神話の別名は「迷路」だという。
つまり神話とは、人間全部をこどもにしてしまって、そのこどもたちによる、こどもたちのための世界像ですから、それができた道順をほほえみながら逆にたどっていかなければなりません。微笑を忘れなければ、迷路をたどる面白さがあるはずです。
ぼくたちはこんな風に核心を捉えた言葉に出会ったことがあっただろうか。「こどもたちによる、こどもたちのための世界像」。
その眼差しから捉えらえる読み解きにも、たくさんの示唆を得ることができる。たとえば、びろう(蒲葵)について、「なぜ、びろうがそれほど珍重されたのか」。
ただの素材というより、なにか郷愁とでもいうほかない魅力が底にただよっている感じがします。植物から受ける祝福の皮膚感覚も、昔の人は私たちよりはるかに鋭敏だったでしょう。
自然のなかから人間は輪郭を出してきたので、人間が自然を立ち上げたわけではない。だから、植物たちのなかから人間が立ち現れるとき、「祝福の皮膚感覚」というにとどまらず、植物を対的な対象として見る感覚も生まれたはずなのだ。その「鋭敏さ」によって。
応答したくなる記述もある。
正確な比率ではないとしても、日本語の単語のまず半分は中国大陸からの到来物でしょう。日本語ほど外国語におんぶして成り立っていることばもすくないわけで、むしろ日本語の内側で自分自身のことばをみつけることがむずかしいというたいそう厄介な問題を、日本人はみんな背負っております。
琉球弧では、サンゴ礁が発生して以降、生命はサンゴ礁という「貝」から生み出されたと考えられた。その名を「ギラ」という。「貝」が内包する「胞衣」から生命は放出される。そのうえ、「胞衣」はサンゴや曽根や礁池へと姿を変えて、あるべき場所を占めている。このとき、もののかたちがメタモルフォースするだけではなく、それを指す言語そのものもメタモルフォースしていた。「ギラ(貝)」は、「ユナ(胞衣)」へと言葉もメタモルフォースさせたのだ。
こうした単語は、「到来物」ではない。それを話す種族そのものが到来したのだから。これらの言葉は、自然物のほんのひと握りの単語に過ぎない。けれど、それは単語自身をメタモルフォースさせて、次々に新しい単語を生み出している。ぼくたちは、それを「自分自身のことば」の養分として汲みあげることができるのだ。現在では、ただのモノの名前に過ぎないと思われている言葉に概念の生命を吹き込むことによって。
糸をまく、あるいはつむぐという行為は洋の東西を問わず、ある持続した時間と連合します。言いかえれば、物語のなかで糸まきが出現したら、労働の日々のシンボルと読んでみるべきでしょう。
これはサンゴ礁の思考の連想を促す。麻(苧麻)はトーテム植物だった。不思議なことに、麻はトーテムというだけではなく、霊魂とかかわりの深い植物ともみなされた。それをぼくたちは、可視化された「息」として麻が捉えられたからだと考えている。別言すれば、このとき島人は、身体組成の物質的な象徴を麻に見たのだ。
ところで、霊魂は一方向に進む時間にかかわる。麻はどのようにその時間とかかわるのか。それは、「糸をまく、あるいはつむぐという行為」のなかで、と言うべきだ。原始農耕の存在が否定されている琉球弧で、それなら一方向に進む時間はどこから学んだのか。谷川の記述は、それを教える。だから、サンゴ礁の思考からは、「労働の日々のシンボル」は、「一方向に進む時間のシンボル」と言い換えることができる。
また、谷川は記紀神話を紐解きながら、そこから「こことは違う別の世界があって、そして「この世」がある」という共通した思考のあることを見出している。見事な洞察だと思う。「あの世」があって「この世」がある。「あの世」が「この世」の始原に控えている。それは、まさに縄文期の死生観と言うべきものだ。
出会うべきときに手に取ることができた、その縁をつないだ方に感謝したい。