詳述する暇がないのだが、治療者と患者とのやりとりが興味深い。
患者:しばしば「先生は私を嫌っている」と主張。数回のセッションの終わりに「溜息をついた」、と。
治療者:「ため息なんかついたかな?」
治療者:「私があなたを嫌っているというように見えるのは、あなたの中で私がどんな存在になっているということなのでしょう」。
患者:「先生は私の認識がおかしいというのですか」
治療者は、内と外の二分法でものを考えていたことになる。
患者:「結局先生は、私の言うことはおかしいと思っているのです。私のことを嫌いなので、私の発言は真剣に考えるつもちがないのです」。
関係は膠着状態。こののち患者と治療者は、彼がいかに敏感に治療者の顔色を気にしていたかについて話し合う。
「どうやら、そうやってお互いに誤解しつつ、相手の顔色をうかがっていたらしい。別に二人とも相手が嫌いではなかったらしいが、不安と不安でぶつかり合っていたらしい」という理解が、「強い確かさをもって迫った」。
患者:「毎回のセッションで、先生が本当に自分のことを嫌っていないことを証明してほしい」と言うようになる。彼は何か方法があるはずだという。
何度も話し合ううちにお互いに理解できたのは、治療者の気持ちを証明する手段は存在しないことだった。
互いの現実にはズレがあったが、二人はそれを認識したままやっていくしかないと結論を出したのである。最終的に治療者と患者は、その話し合いのプロセスについて話し合い、彼は、母親とはそのようなしっかりした話し合いを持ったことはなかったが、今回は違うと、治療者と折り合いをつける作業の体験の新しさに感動を覚えたようだった。
富樫は、どちらが正しいという議論ではなく、「二人が二人の間で現実が扱われるプロセスをどのように見ることができるのかという議論である」と書いている。