第七部、「琉球社会における死の構造」。第一章、「死の呪術師」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
神事についてはノロ、ツカサがいる。私的な祈願をする職能者にユタがいる(p.559)。ユタに対する取り締まりは、1475年の記録がみられる(「中山世譜」)。「ユタ狩り」は昭和初期まで続けられた。
ノロ、ツカサには家柄がある。ノロは独身で終わる例がある。ユタにも家系がある。しかし家系がすべてではなく、神秘的な感性は絶対条件である。
根神は必ずしも根所から出るとは限らない。サーダカ生まれというのは、根人の家筋を言うのではなく、女の神がかりの状態を言う(国頭)。
宮古島では、クジで神人が選ばれる。多良間も狩俣も同じ。もともと宮古にはカンカカリヤーという女性がいる。池間島では、カカランマという神女がツカサの選定をした。ノロの選定にもユタが積極的に参加した。ノロ一門でも、それだけでは継承の資格はなく、セジ高さ、神ダーリを必要とした。
ノロもユタも神霊の憑依ということが重要な要素で、両者の本質的な違いはどこにあるか、その境界はたいへん曖昧になる(p.564)。
神女であるノロがユタに転向していく場合もある。沖永良部島では、島建神話をユタが暗誦して伝えた。
柳田國男は、「海南小記」で、ユタの夢物語を信じなくなった時代、果たしてそれが幸福かは疑いがあるとしてユタの存在に同情の目を向けた。
「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」(宮本演彦)。ユタのもつ呪術性の多様さと神秘性を適切に表現している(p.567)。
ほんとうは琉球のすべての女性が、その本性においては呪術的な機能を内に秘めているらしい。彼女たちは異常な事態でもない限り、尋常一様な女性で終わるが、例えば、疾病、死、産育など、必要に応じて、それなりに呪術的な機能を発揮する(p.568)。
マブイゴメ、マブイ別しなど、日常生活に直結した行事に大きな役割を果たす。神事に携わるノロがユタが担当した例もある。
徳之島の野辺送りのウムイ。沖永良部島の念仏(みんぶち)。ほとんどが一族縁者のふつうの女たちが心を込めて歌う。挽歌。
沖永良部島のクォイ、徳之島のクヤ。
ウムイ、という品のよい言葉で死者を送る歌が生まれる以前には、クォイとかクヤという土着の表現の仕方があって、それは今よりももっと単調で、もっと切々とした言葉で死者を送ったのではないかとう気もする。そして、その当事者は沖永良部島のように、ふつうの女性たちであったろう(p.572)。
ノロとユタの本質的な違いは、ユタが自己幻想を共同幻想に憑依させることができる巫覡であり、ノロは共同幻想を対幻想の対象にした巫女という吉本隆明の定義が最も明確だ。ノロに独身で終わる例があるのは不思議ではない。ただ、琉球弧の場合、両者は交わる部分をもっている。つまり、ノロでもユタの力をもつ者もいた。
「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」。ユタの語りは共同幻想の構造ではなく内容を伝えることができる存在だ。
ユタは女性だけではなく男性でもなれる。与論にも男性巫覡はいた。ふつうの女性でもユタになることがあるのは、誰もが憑依した時代の名残りを色濃く留めているということだ。言い換えれば、共同幻想が未分離だった時代の在り方を。