空間内に存在しているものはすべて、夢見と知覚可能な世界との関わりから生じる。それらはみな、意識と無意識との関わりから生まれるのだ。アボリジニにとって虹とは、無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見にほかならない。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である(p.69『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)
睡眠は、夢見にいたるほんの入り口にすぎない。アボリジニの教育は、水mんや催眠中にも意識を鍛錬することから始まる。睡眠中にも意識を覚醒させておくことこそ、アボリジニ各人が、イニシエーションの始めに実践する行為なのだ。アボリジニの伝統では、ドリームタイムの驚くべき実在が体験できるのは唯一、意識の変容状態においてのみとされている。ドリームタイムとこの世界とのあいだを、意識を覚醒したまま、素早く往来する能力は、一連の儀礼を通じて磨かれてゆく。参加者はその過程で、強烈なトランス状態に陥るが、それは催眠にも似た恍惚状態である。こうして参加者は、謎に満ちた「自然」の超感覚的世界を、日常生活へと招き入れる術を学び取ってゆくのだ(p.79)。
こうした記述をみていると、アボリジニのドリームタイムは、文字通り、夢を思想化したもののように見える。野生の思考にとって、夢は霊魂の遊行を根拠づけるものだったが、アボリジニの場合、最大限の意味を付与されて、世界創造の根拠を生みだした元の経験に当たっているように思える。それは、意識的に夢を見ることに始まり、トランス状態を生むことで、超感覚世界を生みだすことに成長していく。
拡大された夢と実在との二重性がアボリジニの生活であるとしたら、これは、「生、眠り、夢、死は、まだ連続した感覚体験としてとらえられてい」(吉本隆明)たことの内実に当たっている。