オセアニアを注視しているので、坂井信三による「アフリカの霊魂観」は新鮮だ。
西アフリカの伝統文化の代表例とみなされるドゴン族。
ドゴンの人々はこの不毛な砂岩の台地と断崖で、狭い谷間にたまったわずかの土地を大切に集めて畑にし、トウジンビエやアフリカ稲などを栽培してきた。
この地域は、「サバンナや氾濫原の広大無辺さとはちがう、まるで箱庭の世界に入りこんだような錯覚にとらわれる」。そんな場所に住むドゴン族の霊魂観。
人間は体と魂と生命力との複合からなる。
子供の魂は二つ。割礼と陰核切除によって、一つになるが、除去された魂は、男性の場合はトカゲ、女性はサソリにとどまる。人間にはある種の「影のようなもの」として体にとどまる。
鎖骨は人格の要をなして、そこに四種類の主要作物の種子の穀物倉にたとえられる。体の魂は、父母系、トーテム、年齢集団、性によって細分化される。この細分化は、「固有のアイデンティティを与える認識体系の役割を担っている」。
生命力ニャマは、水のような流動物として表象される。汗や息など身体から発散する水分だけでなく、泉や川の水、雨や嵐、さらには熱気、陽光などの気象現象も、その発現だとみなされる。
こうしたニャマの活動を見ていくと、それが生理・心理・社会・気象などの次元で、次々にかたちを変えながら融合したり分離したり、合流して溢れ出したり衝突して激流となったりしてはやがて再び退いていく、普遍的であると同時に個別的な、変幻自在のエネルギーのようなものらしいことが分かる。
死後の世界はあまり重要な意味を持っていない。
もちろんドゴンの人々も祖先祭祀を行い、仮面を用いた盛大な死者儀礼を行うが、それはあくまでも生きている非人間たちの活動との関連で意味があるものであって、死者自身がたどる死後の運命や、天国・地獄のような死後の世界はほとんど関心の対象にならないのである。
水の精霊ノンモは、「ことば」とも同一視される。良いことばは耳から入って女性の性器に到達し、そこに湿気と熱を与えて妊娠を助ける。悪いことばは耳から入ってのどに行き、肝臓を通って子宮に達する。女の性器のいやな臭いは耳が聞いた悪いことば。他の例でも、ドゴンの人たちがよいことばを大事にしている。
ドゴン族の霊魂観は、霊力思考が旺盛だ。生命力ニャマが霊力の原義に変形を蒙っていないというだけでなく、「魂」の規定も霊力的である。それが、他界観の浅さとつながっている。仮面も来訪神化していない。おそらく、生と死は移行の段階にあるのだ。