金子浩昌による蝶形骨器の変遷は次のようになる。
祖形と見なされているのは、沖縄島でもっともくびれた部分になるうるま市の古我地原貝塚から出土したもので、これは石でできている。胴体部の幅広い線刻があるが、羽の模様ははっきりしない。最大幅8cmで他の製品と比べると小さい。
結合式
結合期の初期に位置づけられているのは、津堅島のキガ浜貝塚からのもの。現在発掘されたもののなかでは、結合型の初期に位置づけられるが、ずいぶん発達したものに見える。金子浩昌は、「結合式蝶形骨器の原形」としている。
「はねの彫刻内外に朱彩があり、豪華な雰囲気をもつ」。「はね全体は、ゆるやかな反りをもってのび、自然のチョウのはばたきを写している」。翅頂(しちょう)につく二つの隆帯は大きく強調されている。「この隆帯は、正面から見たときに細くなったはねに幅を幅をもたせる工夫で、チョウのはねの華やかさを表現している」。
5、6
幅広く深い切りこみで外形がていねいに切り取られている。「切断面は垂直的ではなく、裏面で斜行する面をつくり、はねの薄い感じを出そうとしている」。
「胴体部は幅広く先端が三角形に尖っており、他に類例を見ないかたちである」。大きさは蝶形骨製品中埼大。
単一式
7
↓
素材はウミガメ類。左右に開くはねの幅(開帳)が広く、先端が細い。
↓
11
はねの表現は、「肋骨の製品には見られないチョウの自然のかたちを表現しようとしている」。「前ばねの前縁がゆるやかに湾曲する表現」。「後ばねの尾状突起も流麗な表現」。
どちらも豪華になるのが終点に来ている。
祖形に当たる古我地原貝塚出土のものが、前Ⅲ期・約4500~3500年前に当たる。
6の吹出原遺跡の蝶形骨器は、縄文時代後期から晩期とあるので、約3300年前としておく。
11の真志喜安座間原第一遺跡のものは、よく分からないが約3500年前としておく。
なぜ、このとき終わったかは分からない。いずれ、土器の編年と対応させてみたい。